memo2

最近の読書傾向はエンターテイメントにはほど遠いラインナップだ。 

もともと知識欲が有り余っている方なんだと思う。でも最近は集中力が続かないため一気に読破すると言うことができてない。論文みたいな硬い文章ばっかりなのでゆっくり読まないとわからないってのもある。 
途中で投げ出して半年経つような本もいくつか。たいてい社会学系の本なのだけど。 

一方、詩を読むのにもものすごく時間がかかる。 
昨日は詩と短歌、映像とインスタレーションが混じる良い雰囲気の展覧会にいって来た。短歌と詩はもうちょっと静かな時に読みたかったので、人が多くいる時に行ってしまって残念。 

友人の紹介で、あるおじさんに出会う。 
私の地元のエリアの自然保護についての一考を聞かせていただく。 
相手にとっては未来を語ることでも、私にとっては過去をえぐり出されるようなことだったようで、念仏を聞かされたようだった。 

例えば開拓時代、どれほどの苦労をして耕したかわからぬ広大なこの土地を、また再びもともとの自然へ戻すなんて、開拓者の血が入っている私からはおいそれとは口に出来ない。 

口に出した瞬間、言霊が出来るだろう。言霊とは呪いだ。 
口から出したことを実行しなかった場合、それは呪いになって跳ね返る。 
ヤマトタケルが神の使者と間違えて、神そのものである白猪を倒すと口に出してから、いったいなにがおこったか。それを実現出来なかったタケルはついに死んで魂は白鳥となり黄泉へと帰ってしまったというではないか。 

人間がこの短いサイクルで行ってしまっている心変わりは、 
自然からしてみたら、親の敵が、いきなり求婚を申し込んで来たもんだろう。 
まあそれも、薩摩藩で昔あったことと聞く。親の敵でもある新藩主が自分の妹に一目惚れし、求婚を申し込み、断りきれずにくれてしまったと言う話。ありえない話ではないが、しかし。 

帰り際、一目散に帰りたくて、卒制の材料の物色を忘れて帰ってしまった。 

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日本文化のさまざまの珍奇なものに対して、外国人が軽々しく賞讃をあたえてくれるのは、博物館の一時の訪問者としての興味の持ち方に由来する。博物館の中に住む七千万人の私たちは、博物館の訪問者と同じ視覚から日本文化を評価することはできない。(限界芸術論/鶴見俊輔 より) 
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