1か0/その中間は無限

責任って言葉を良く使う。
わたしは「責任」について考えているらしい。

最近と言ってもまあここ2、3年ぐらいずっと持ち続けている話なんだが、最近は特に考えているらしく、多用。

「住む」ということに責任が生じうるか、というと重い話なのだが、、、、
この土地に住むと言うことはどういうことか。

つまり、そういったことの周辺を考えている。

開拓者の末裔として、というわけじゃないけれど、北海道人的気質が少なからず関係している、と個人的には考えている。
わたしはわたしの人生に、北海道の歴史的なところに由来する気質を感じる。もしかしたら、案外、土地の記憶を頂いているのかもしれない。
開拓時代の草の根の話なども都会の子に比べれば案外聞いていたかもしれないと思う瞬間もある。(それは比べようのないことだからしょうのないことだけど)



お前はコミュニタリアンだ、と言われた。ようするに共同体主義者ということらしいのだが。。。。。



http://www.fujitsubame.com/industrye-1-2-1d.html
経済には、人的側面、物的側面、貨幣的(会計的)側面の三つの側面がある。経済は、貨幣的な次元に全てを還元できるような一次元・単次元的対象ではない。
今、経済の問題を認識する際、一番問題なのは、経済の人的側面が欠落していることである。つまり、経済が唯物的対象になっていることである。しかも、近年は、物的側面も脱落し、貨幣的側面だけで経済を認識しようとしている。それが諸悪の根源だとも言える。最も人間的営みである、経済から人間性が失われてしまったのである。
〜〜
それは、経済を価格面、金銭面からだけ見て、判断しているからである。経済的合理性というのは、価格面だけから判断すべき事ではない。むしろ、それは危険なことである。価格というのは、ある種の結果である。しかし、経済の本質的機能は、プロセス、過程にある。つまり、労働過程と分配過程である。労働の必要性は、生産効率からのみ判断できる事柄ではない。機械化が及ぼす影響は、単に、経費削減にとどまらないのである。いかに、効率よく、万遍なく、社会の隅々まで生活に必要な者を分配するかも経済機能の重要な要素の一つである。
〜〜
http://blogs.yahoo.co.jp/tessai2005/39956576.html
社会というのは、やはり、生まれた場所で働き、子供を残して死んで行くという、土地に根付いた人々がかなりいなければうまく行かない。その土地に対する帰属意識がない人ばかりだと、難しい問題を誰も解決しようとしない。無責任になってしまう。いつまでたっても問題は積み残しだ。たしかに、どの土地に生まれるかは、・・・偶然だよ。豊かな土地もあれば、貧しい土地もある。しかし、どんな土地でも、その場にふみとどまって、何とかしようという人がいなければ、どうにもならない。貧しい土地は、ますますさびれてしまう。。。

コメント