まちづくり・アート・教育//COALITION −石炭を物語るアート−
COALITION −石炭を物語るアート−/トークディスカッション「石炭の魅力再発見!-まちづくり・アート・教育からのアプローチ-」
に行って来ました。
今回、藤原さんは「Monologue」と「Dialogue」というキーワードで建築とアート(あるいは、アートプロジェクト)を分けていました。
作品講評で映像の先生と話していた時、建築と美術の違いは「Poesy」のあるなしだと言われたのを思い出しました。
Poesyとは、詩(私)的な物語とも言えると思う。
これは岡本太郎のような王道アーティストの言うような、芸術は爆発だとかPassionとも違う性質のものです。
作家である前に「生活者」としての生活への思い入れ、(生活のなかの一部には地域の文化があるかと思います)
そこから発露する個人的な物語を語ることで地域全体が一つの物語に向かって進んで行くという過程が、アートプロジェクトなのではないかと考えています。
その可能性を育てられるのはプロジェクトに関わるアーティスト自身であり、市民でもあり、もちろんコーディネートする者でもありますが、
それぞれがバランスよく栄養をあげなければ腐ってしまうような類いの物でもあると考えられます。
パンドラの箱のようなさまざまな可能性を含んだ行為がプロジェクトだと思ってます。
しかし、それは関係性の作り方に対する作家自身の「倫理観」によって左右される部分が大きいとも思う。
そしてここからは、作品つくりをする側から感じる問題。
アーティスト自身が持つなにがしかの「溝」を埋めるというのが多くの絵画や彫刻やプロジェクトの作品をつくる源動機ですが、
そのような源動機が無いプロジェクトが多くなっているのも事実です。
私はここに強い問題を感じています。
日本でのプロジェクト作品の多くはそもそもが社会に働きかけることを前提としています。
たとえ出発点が個人的な動機からだとしても、それを「なぜ行う必要があるのか」という問いに答え続けるための強度が必要でした。
(作家の自我を強く押し出すことで倫理的な反発を受けるようなことも過去にあったりしていました。)
しかし、マネジメントという分野が確立すればするほど、「なぜ行う必要があるのか?」という理由付けは上手くなり、それ以前のところにある源動機を問われる機会も無いような状態になってしまっていると感じます。
私見でもありますが、自分のルーツや身の回りの違和感に対して行うアクション(行動)と、アート(作品化すること)との差が薄くなってしまっていると感じているところです。
そのようなうすっぺらいアート作品の氾濫する日本で、作家、あるいは市民は、なにか感動し忘れられない体験をして、充実することができるのだろうか、というのが個人的な命題。
また、アーティスト自身はタフになり、社会に対して作品を通して問題提起をしていると自覚してプロジェクトに取り組まなければ次世代に残るような行いにはならないと思う。
そして、そのエネルギーを「まちづくり」にうまいこと活かすのが、藤原さんや吉岡さんのような、頭の回転の速く社会貢献意識の高い方々なのだと思いました。
アートとまちづくりは本来すんなり一本で繋がることはないけれど、そのように手綱をとる方々のお陰でお互いのニーズが合致してつながっているのだと思います。
今回のお話を聞いて上記のような事を考えていました。
もっとも私の中ではこれらは言語化の最中。
また変わっていく考えとして押さえておくことにする。
COALITIONの会場、今日は俄然面白い講義の場と変容していました。
に行って来ました。
友人でもある、司会の国盛さんからいきなりアートプロジェクトについての話を降られました。
咄嗟のことで全然うまく言えなかったけど、
アートで町づくりは違うんじゃないかということを一生懸命言っていたような…(笑)
だから、つまりさ、「アートでまちづくり」なんて標語は大変な詐欺事件なんじゃないかと思うよ。
アートにまちをつくる力は無い。まちをつくるのはあくまでも「まちの人」で、そういう人をつくるための機会を作る、のがアートプロジェクトだっていうなら、ちょっとわかる。
つくるっていうのはおこがましいかな。
「まちをつくる人と出会う機会をつくる」のがアートプロジェクト。だとどうでしょう。
「まちをつくる人と出会う機会をつくる」のがアートプロジェクト。だとどうでしょう。
って言う事を言いたかったのですが・・・だめでした。ハハ。
今回、藤原さんは「Monologue」と「Dialogue」というキーワードで建築とアート(あるいは、アートプロジェクト)を分けていました。
作品講評で映像の先生と話していた時、建築と美術の違いは「Poesy」のあるなしだと言われたのを思い出しました。
Poesyとは、詩(私)的な物語とも言えると思う。
これは岡本太郎のような王道アーティストの言うような、芸術は爆発だとかPassionとも違う性質のものです。
作家である前に「生活者」としての生活への思い入れ、(生活のなかの一部には地域の文化があるかと思います)
そこから発露する個人的な物語を語ることで地域全体が一つの物語に向かって進んで行くという過程が、アートプロジェクトなのではないかと考えています。
その可能性を育てられるのはプロジェクトに関わるアーティスト自身であり、市民でもあり、もちろんコーディネートする者でもありますが、
それぞれがバランスよく栄養をあげなければ腐ってしまうような類いの物でもあると考えられます。
パンドラの箱のようなさまざまな可能性を含んだ行為がプロジェクトだと思ってます。
しかし、それは関係性の作り方に対する作家自身の「倫理観」によって左右される部分が大きいとも思う。
そしてここからは、作品つくりをする側から感じる問題。
アーティスト自身が持つなにがしかの「溝」を埋めるというのが多くの絵画や彫刻やプロジェクトの作品をつくる源動機ですが、
そのような源動機が無いプロジェクトが多くなっているのも事実です。
私はここに強い問題を感じています。
日本でのプロジェクト作品の多くはそもそもが社会に働きかけることを前提としています。
たとえ出発点が個人的な動機からだとしても、それを「なぜ行う必要があるのか」という問いに答え続けるための強度が必要でした。
(作家の自我を強く押し出すことで倫理的な反発を受けるようなことも過去にあったりしていました。)
しかし、マネジメントという分野が確立すればするほど、「なぜ行う必要があるのか?」という理由付けは上手くなり、それ以前のところにある源動機を問われる機会も無いような状態になってしまっていると感じます。
私見でもありますが、自分のルーツや身の回りの違和感に対して行うアクション(行動)と、アート(作品化すること)との差が薄くなってしまっていると感じているところです。
そのようなうすっぺらいアート作品の氾濫する日本で、作家、あるいは市民は、なにか感動し忘れられない体験をして、充実することができるのだろうか、というのが個人的な命題。
また、アーティスト自身はタフになり、社会に対して作品を通して問題提起をしていると自覚してプロジェクトに取り組まなければ次世代に残るような行いにはならないと思う。
そして、そのエネルギーを「まちづくり」にうまいこと活かすのが、藤原さんや吉岡さんのような、頭の回転の速く社会貢献意識の高い方々なのだと思いました。
アートとまちづくりは本来すんなり一本で繋がることはないけれど、そのように手綱をとる方々のお陰でお互いのニーズが合致してつながっているのだと思います。
今回のお話を聞いて上記のような事を考えていました。
もっとも私の中ではこれらは言語化の最中。
また変わっていく考えとして押さえておくことにする。
COALITIONの会場、今日は俄然面白い講義の場と変容していました。
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