読了

死へむかう風景 岩田慶治






部分と全体 
日常と非日常 
生と死 
俗と聖 

これらを行ったり来たりするのが人の常なるところで、それが東南アジアではそういう事柄の表層が、伝統行事として色濃く残っているという。 
そういう事例をいろいろ紹介しつつ「アニミズム」「同時性(シンクロニシティ/共時性)」を紐解いていきます。 


何度か出てくる遊びについての考察では、有限の事象が無限の入り口であること、有限の中に無限があり、無限の中に有限があることをコマ回しから感じるとか、 
猫の死でブッタの死を想起し、死や魂のありかたについての「不在」の考えは、感覚的に、なんとなく、わかる。。。 


なんとなく、わかる・・・ 

読後の印象もそんな感じ。 

ホイジンガの遊び論では、自然と文化の波打ち際の出来事、日常世界と非日常世界の交わるところ、俗と聖の境界線の出来事が遊びであると紹介しています。 
その後に読んでいる「限界芸術論」では、遊びから限界芸術が生じ、そこから大衆芸術と純粋芸術が生まれる、というお話が前文にアリ。 

「自然と文化の波打ち際の出来事、日常世界と非日常世界の交わるところ、俗と聖の境界線の出来事」 
これらが芸術の根源だ、と繋げると、個人的にはすごくすごく納得です。

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