教育学をひらく 自己解放から教育自治へ/鈴木敏正

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二十一世紀は、二十世紀において深刻化した人間の「自己疎外」を克服し、「自己解放」をしていくことが求められる時代である(p30)
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自己疎外の状態を自己疎外と認識し、それが産まれる理由と克服の条件を理解し、自分たちの力を見直し信頼して、自己実現と相互承認の関係を意図的に創造していく実践が必要である。(p120)
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近現代の日本社会では、子どもの場合でも、活動手段のみならず人間的諸能力も「私的所有」とみなされることが支配的となっている。「権利としての教育」が承認された戦後においては、ほんらい学習手段は公共的なものであるはずであるが、実際には私的所有である場合が多く、最近になるほどその傾向が強まっている。とくに自己責任・受益者負担を強調する近年の新自由主義的な教育政策のもとでは、学習活動そのものが「私的活動」と見なされるようになってきている。(p120)
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半年前位に読んだ本。今更ながらメモ代わりのレビュー。。。

教育学の教科書として使ったりしているのでしょうか?北大の先生の本です。
どちらかというと学生向けなのだと思いますが、何度も砕いて同じ事を言ってくれているし、ややこしい文章の使い方をしていなかったのでわかりやすかったです。

前半は、20世紀から引き継いだ「自己疎外」というものがどういった社会思想の中でもたらされたのか、また教育との関わりについて書かれています。
戦後から現行の日本の教育制度の移りかわりも、当時の思想背景と共に書かれているので、
教育制度の授業を大学で少しかじったことのある身としては、あ~なるほど!っと、フィードバックされました。

後半は学校教育だけではなく、広く「生涯教育」、「社会教育」という枠組みでの事例を載せています。

どういう風に教育を捉えて、人間形成をはかるべきか。
というのが問題なのですが、
これは私が思っていた「教育」と言う概念から越えていたところで、まさに今「社会教育」と言って括られている考えかたです。教育って広い言葉なんだなーと改めて思います。



この本のなかでは最終的に、求められているものは
「地域教育公共圏」(=教育実践を通した地域的な公共性の形成過程とそこから作られる時空間)と
自己実現などの言葉に見られる私的個人の部分の強調と同時に、社会の中の個人という枠付けでの社会的個人としての個人形成、だとまとめられてる。

その双方が共に健全に形成されることを通じて、人間が人間として解放されることが可能である、ということ。

“社会”が、今、何を求めているのか?
何が変わろうとしているのか?
どうしてこんな風に変わってしまったのか?

いろいろと不思議に思います。
いま地味に読み進めている経済学の本と少し関連した内容もあり、古今東西関わらず、政治と経済って人間の営みにすげーリンクしてるんだなああああって実感中です。


社会教育とアートプロジェクトは似ています。

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