9月の気持ち、12月のいま

10月に、30km圏立ち入り禁止のための関門を見にいきました。好奇心によって。

事件直後に東京に来るのは怖かったんですけど、すっかり落ち着きました。ただどんな食べ物を買えばいいのかいまだにわからないさ。

9月11日ごろに福島に行って、農家さんの畑を見て、そこにある野菜を腹一杯食べたんだよ。自分たちの土地のモノは「選べない」という当たり前のことを知らずに、私は遠隔地で「選ぶ」ことだけで解決しようとしていた、ということに気づかされた。
例えば仮定として、北海道が現在よりも深刻な状況で汚染されてしまった場合でも、海のものや山のものを食べることを、やめることはできないと思う。だってそれ以外にどうすればいいんだよ。もはや移動する以外にないよ。

ところで最近小学生にものを教えるということをやってみています(ただし、もったいないんですが、今年中に辞める予定にしてもらった)。

算数の教え方って、ものすごい合理的で、
「1+1=2」
なんですわ。
で、図形の問題も、形が違えど角と辺が3つあれば三角形、4つあれば四角形。
「高さ×底辺÷2=三角形の面積」
なので、底辺と高さが共通していれば、角度が違っても「同じ」面積を持つ三角形。他の図形、平行四辺形なども然り。

こういう訓練は、「観る」力が麻痺していくことに近いなと、ふと思います。
形が違うということに疑問を持たない子はある意味、問題を速く解くことができます。
で、練習用の問題集には、
「同じ面積の三角形はどれでしょう?」
なんて書かれているわけ。で、瞬時に同じ面積の三角形を選び出すことが、成果として求められている。

でも、高さと面積が同じでも形は違うじゃないですかー。書かれているページが違うじゃないですかー、という屁理屈、言いたくならない?(わたしは、同級生や先生の態度を見ておもしろがるために姑息な屁理屈を考えては授業を混乱させる奴の一人だったけど。)
しかも、表裏一体(2=1)だとか三位一体(3=1)だとかが通念の、世界を体感しながら私たちは生きているというのに、それを忘れることで教育はある意味で成功した(すらすらと問題が解けるようになる)と言える状態になるではないですか。
特に現場にでていると、すらすらと問題が解ける子は大丈夫で、そうじゃない子はケアが必要だしさあ。正直に言って、すらすら解ける奴の方だってケアは必要で、あえて言い過ぎると、すべての人に特別支援が必要だったりするもんだよ。

これは、今、子供に単元として教える内容を見ながらではあるけれど、あくまでも自分の体験を思い出しながらの経験論だよ!!!

子供は苦労して大人の視点を得るが、事物を分析するということではなく、単純に事物を分解というか分断するという結果に終わっていると、言えなくもない。
話しを戻すけれど、「選ぶ」ことで解決を図るという姿勢が、要素を「分析」ではなく「分断」をして考えること、そういう態度にすごく通じているんじゃないかと思ったんだよ。

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