漆サミットの後で、、、血と漆、鹿と枝

去年、ガイドスポットというプロジェクトの作品の中で「血と剣」というインスタレーションをやって、漆の木剣をストーリーナイフ(物語りを語る時に地面に絵を書く道具)として使いました。その時からまた一年ほどたち、今年も漆サミットを通じて漆文化の現在を垣間みさせてもらいました。狩猟と漆のリサーチを続けて見えてきたかもしれないことがあります。以下、その気づきに興奮して、フェースブックのウォールに走り書きしたものです。もし類似の文献があればぜひコメント欄でお教えください。)

漆掻きは漆を切って液をとるもの。去年ほんの数十分だけですが、浄法寺の漆林で、道具をもらせてもらって漆掻き体験をさせてもらいました。すーっと傷からにじみ出てくる乳白色の樹液を見て、何十本も走る疵を見て、とても計画性のある暴力のようなものをここでも人間が振るっているんだなと思ったんですが、そのことと野生動物を狩って食べるのが身近な私のような人の思考からすると、赤漆は聖と邪の強力なパワーを持つ血として、自分自身を<殺すこと=生きること>の穢れから許したり浄化するために扱われていたのではないかと思ってます。そして、狩猟対象のマンモス、鹿やイノシシの祖先は草食性大型獣だった。縄文人的にはシシ(肉)はとても植物的存在に感じるんじゃないかと、私は感じています。というのも、例えば、エゾシカを解体するともわっと青草の発酵したような植物的臭いがします。狩猟や解体に何回か自分で立会って、腹の中に溜まる青草が腸から透けてみえていたり、においや息の残り香が草のにおいだったり、野生の鹿を見るたびにその動きや姿形になんとも言われぬ植物的雰囲気をひしひし感じた。鹿は植物に成りたいか、もしくは自分自身を植物だと思っている生き物なんじゃないかとつい最近も真面目に考えてました。
鹿が自分を植物と思っているかもしれないという発想は、ジルボルト・テイラーの『奇跡の脳』からきている。右脳優位の知覚で、体と壁床の設置面から、分子レベルでの融合、幸福感、すべての存在と一体感を得たという経験があると知ったこと。差し伸べられた手が、獣が口を開け迫ってくるように見え恐怖を感じるという彼女の体験。動物たちは常にそういう世界にいるのではと思って。人間にも、右脳感覚優位の時代があったとしたら、すべてが一体となった涅槃のような世界を既に知っていたのではと思う。

全部経験的なところからつながってるんだけれど、漆の被れを乗り越えることは精神的に狩猟行為=自分の存在や人生を受け入れるためのイニシエーションの一つだったんじゃないかなぁと思ってます。その精神性を残す儀式として、アイヌの熊送りに共通の思想があるように感じます。そう、それで、これはすこし飛躍しすぎだけど、赤い器に食べ物を供えるというのは、オラは生き物を殺して生かされてるんだという確認作業であったのかもしれない。血塗られた器に食物を置く。食物を、命あったものとして視覚化するために、漆器を用いる。その精神が、弥生後期に漢の黒漆(鉄との化合で作られる黒)が受け入れられたというのは、それから始まる稲作文化、青銅や鉄器文化の精神的面からの迎合の姿勢とも考えられなくも無い。だから、鹿角に赤漆を塗るという行為は、永遠の記号化と四柳先生はさらっといわれていたけれど、血を持った植物と幹を持った動物の生命のクロスオーバー。生き物という個々に分断されてしまった生命存在を一つにして表すという、すごく高度な試みだったのじゃないか。

こんなことをつらつらフェースブックに書いてたら、知り合いの芸術人類学・神話学者の石倉敏明さんからイロイロな情報もいただけた。石倉さんのいらっしゃる秋田にも漆器産地が何カ所かあるし、面白い作家さんもいらっしゃるようなので、いつか絶対に行かないといけないなあ。漆のリサーチ、産地調査を続けていなかったらココまで気づけなかったな。漆サミットの機会があってこそでした。

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