the last dance

ある人が「コミュニティアートは新しいお祭りを作ること」と言っていました。 
それについては断定的すぎると思うところもありますが、今日はお祭りのお話。 


今日はねぷた踊りをして来ました。 

なにを隠そう、わたくしねぷた研究会というサークルに所属しているのでした。 
身体感覚の実感と理論を通してねぷた踊りを習得し、(歴代OBOGさんも参加しつつ)岩見沢の祭りに参加して踊る、というのが目的で継続させていました。 


この研究会、実は民俗舞踊の専門家の先生が顧問だったのですが、大学再編に伴い、先生が転勤…そして今年は退官、と事情も変わりながら、再編後も部は規模縮小しつつも存続させていました。私が入ったのは3年前。 
今年私たちの代が卒業してしまうと、事実上部員0名で廃部… 

ということで、今年は「終わりの年」にしよう、と現役部員で話し合い、今年の活動は「部室の物品の片付け」と決め 
最後の最後に先生やOBOGさんを呼んで「踊り締め」をすることにしたのでした。 


そして本日がその「踊り締め」当日。 
今日はお世話になっていた学童保育の一環で毎年ねぷたと荒馬をされている札幌の荒馬衆の方々や民舞研(札幌民族舞踊教育研究会)の先生なども来てくださって、それぞれに踊り締めに付き合ってくださいました。 
今日は退官された顧問の先生の特別講義も開催し、 

<「身体感覚」とはなんぞや?> 

という、私がねぷ研に引力のように引かれる原因になった、原点のところのお話を再び聞く事ができました。 
現役時代の先生の赴任当初の授業では生徒が舞踊を学び、創作ダンスなどを発表していたらしいのですが、映像を見ると信じられない位レベルが高い! 


西洋の動きを捨てて、日本古来の民俗舞踊から体の動かし方を学ぶのですが 
最終的には<最小の力で最大限に体が動く>という理論と実践の記録。 

先生の研究テーマでもあった、アイヌ舞踊から学ぶ「即興性」を取り入れた創作ダンスを社会科教育の生徒がやるのです。とても教育の学生だとは思えない動きで。 

踊りのための体は、筋肉(外観的身体)が出来ていないと出来ない、のではなく、最終的には感覚(内観的身体)が繋がっているかいないか、というところなのだと思いました。 
そしてそれは踊りだけでなくて、モノを作るときや、歌う時、 
生活のなかの全てに通じる感覚なのだという話でした。 

とにもかくにも、古来日本人が自然と身に付けていた体の動かし方を、実践を通して学び、 
今を生きる現代人がどう実感して再構築・応用するか、というようなお話。 
研究と授業の内容がリンクして、だんだんと授業の質が上がって行っている、という先生。ものすごい探究心とその熱意には本当に感動します。 

一方、そんなすごい先生をしたって集まる方々を受け入れる現役部員は4年生の3人のみ。 

去年までは、一ヶ月前から何か禊(みそぎ)をして(禁菓子、禁酒とか)、 
練習をして(型が違うとか、感覚で動くってどういうことか、というダメだしの日々)、 
祭り本番にやっと踊るという流れなのですが 

今日は、禊無し練習無し、 


とりあえず踊る!! 
踊って感覚を取り戻す!! 


という非常にフランクでラフな雰囲気。 
先輩方に感覚を引っ張ってもらいつつ、だんだんと踊りがシンクロしていく気持ちよさったら。 

とても気持ちよく踊れました。 


この3年間ねぷ研でよかった。。 
すごく良い経験をしました。 


祭り(ハレ)の感覚と日常(ケ)の感覚の違い、日常が浄化されるお祭りという機能、を身をもって体験出来たこの部に感謝です。 


 
そんで、踊った後は日常回帰。 
いま現役の小中学校の先生になっている方もいれば、普通に違う職種の方もいましたが

先輩方の近況の話が、すばらしかったのだ。 
旧課程の先輩方と知り合えたのも私にとってはグレートフルなことなのでした。 

就活や制作の日々に押し流され、当日準備もままならず…でしたが和やかに会は終了し、残された現役部員は余ったお惣菜を仲良く分けて帰路につきました。 
 


祭りなくして舞踊なし。 

そしてもちろん、 
日常なくして祭りなし。 




・・・泣きそう。




先生も参加されている編著。(在庫切れる前に買わなければ…)

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