菅木志雄のノートから

<風景>と<自然>の違いはたとえば、キリスト以前の原始社会にたちかえってみれば、なぐさみものである脳裏の自然を、より楽しいものとするために風景が生まれた。(…)状況、ものの直接性を排除したところに風景はある。

(『菅木志雄 著作選集 [領域は閉じない]』p23)


<見ること>がそのまま<知ること>であるという思い込みは<つくること>がすなわち<表現すること>だと同じぐらいに安易な結び付け方である。<知ること>はまず知ろうとする感覚器が必要と同様、<こと>がなければならず、<こと>がなければ<知る>認識もないだろう。認識がなければ勿論表現ということもあり得ない。時には表現がモノの存在をあきらかにする場合もあるかもしれないが、多くはモノは表現により失われる。

(同、p32-33)

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