あとがき:ともに生きるということ
今回の展示、「テキストは付けなかったの?」といろんな人に言われた。
そう、今回テキストは付けなかったのだ。
付けられなかったと言った方が正しいのだが。
さつまいもを貰ったのは2009年の9月で、展示をしたのが2010年の5月。
始まりは、さつまいもを大阪の友人に貰ったところからだった。
この9ヶ月の間私はさつまいもと一緒に大阪から帰ってきたり、友人の家に居候したり、実家に帰ったり、自分の家の引っ越しをしたりしていた。
情けない事に、あまりにもいろいろな感情が錯綜していて展示前日まで文章にする事が出来なかったのだった。
だから結局テキストは入れないまま、展示をすることにした。
その代わりに、可能な限り在廊し、工芸作家やサラリーマンやOL、
大学のOBや中学時代の友人、大学の事務のおじさん、たまたま訪れてきてくれたいろいろな人にこの作品について話す必要があったのだと今になって思う。
工芸作品展のため、年配の方が多かった。
植物好きの人とは話が弾む。
しかし、「あらーいいわねぇー。」と言われるのはまだ良い方で、ぜんぜん???のまま返っちゃう人の方が多かった。
それでも興味を持ってくれる人もいて、そういう人達には真剣になぜこの作品を作ったかということを話すことになった。
何度も何度も話すうちに見えて来た事がある。
結局、この9ヶ月の間に私はサツマイモと一緒に大阪から帰ってきたり、友人の家に居候したり、実家に帰ったり、大学寮からアパートへの引っ越しをしたりしていたのだった。
雪の降る前、大阪で、大学の寮から引っ越しをしようと思った。
私の寮は、他の多くの学生寮と同じで、なんだか内装が昭和っぽくて、とても狭くて、隣の人のくしゃみする音が聞こえる。そしてアスベストで作られていた。
その改修工事をするということになった時期だった。
それは多くの寮生の望まないことでもあった。
自治役員だった私は大学の事務のおじさんと毎回折衝をしたり、役員で深夜まで会議をしたりとほとほと疲れきっていたのだった。
だから旅行先の大阪から帰って来た私はそのまま友人の家に居候を始め、次の家を探していた。
毎日の茶碗洗いが日課で毎朝友人に起こしてもらう、ヒモのような生活だった。
サツマイモも友人の家で育てていた。
ペットがペットを飼っているような状態だった。
友人の家だったり実家だったり寮だったり、引っ越す前は居場所をちょくちょく変えていた。
サツマイモも一緒だった。
このサツマイモは私が靴下を履かせたり、寒い冬の間にいろんなところへ連れ回していくよりも、9ヶ月前に食べられていた方が幸せだったのではないだろうか。
そんなことも思う。
引っ越しをした後、サツマイモをくれた大阪の友人は北海道に遊びに来てくれたし、工芸の友人はサツマイモのための器を作ってくれた。
そしてようやく雪がなくなって、サツマイモもそろそろ植えられる時期になった。
展覧会の後、「うちの庭に埋めたい」と言って苗を一つ持って帰ってくれた人がいた。
そう、今回テキストは付けなかったのだ。
付けられなかったと言った方が正しいのだが。
さつまいもを貰ったのは2009年の9月で、展示をしたのが2010年の5月。
始まりは、さつまいもを大阪の友人に貰ったところからだった。
この9ヶ月の間私はさつまいもと一緒に大阪から帰ってきたり、友人の家に居候したり、実家に帰ったり、自分の家の引っ越しをしたりしていた。
情けない事に、あまりにもいろいろな感情が錯綜していて展示前日まで文章にする事が出来なかったのだった。
だから結局テキストは入れないまま、展示をすることにした。
その代わりに、可能な限り在廊し、工芸作家やサラリーマンやOL、
大学のOBや中学時代の友人、大学の事務のおじさん、たまたま訪れてきてくれたいろいろな人にこの作品について話す必要があったのだと今になって思う。
工芸作品展のため、年配の方が多かった。
植物好きの人とは話が弾む。
しかし、「あらーいいわねぇー。」と言われるのはまだ良い方で、ぜんぜん???のまま返っちゃう人の方が多かった。
それでも興味を持ってくれる人もいて、そういう人達には真剣になぜこの作品を作ったかということを話すことになった。
何度も何度も話すうちに見えて来た事がある。
結局、この9ヶ月の間に私はサツマイモと一緒に大阪から帰ってきたり、友人の家に居候したり、実家に帰ったり、大学寮からアパートへの引っ越しをしたりしていたのだった。
雪の降る前、大阪で、大学の寮から引っ越しをしようと思った。
私の寮は、他の多くの学生寮と同じで、なんだか内装が昭和っぽくて、とても狭くて、隣の人のくしゃみする音が聞こえる。そしてアスベストで作られていた。
その改修工事をするということになった時期だった。
それは多くの寮生の望まないことでもあった。
自治役員だった私は大学の事務のおじさんと毎回折衝をしたり、役員で深夜まで会議をしたりとほとほと疲れきっていたのだった。
だから旅行先の大阪から帰って来た私はそのまま友人の家に居候を始め、次の家を探していた。
毎日の茶碗洗いが日課で毎朝友人に起こしてもらう、ヒモのような生活だった。
サツマイモも友人の家で育てていた。
ペットがペットを飼っているような状態だった。
友人の家だったり実家だったり寮だったり、引っ越す前は居場所をちょくちょく変えていた。
サツマイモも一緒だった。
このサツマイモは私が靴下を履かせたり、寒い冬の間にいろんなところへ連れ回していくよりも、9ヶ月前に食べられていた方が幸せだったのではないだろうか。
そんなことも思う。
引っ越しをした後、サツマイモをくれた大阪の友人は北海道に遊びに来てくれたし、工芸の友人はサツマイモのための器を作ってくれた。
そしてようやく雪がなくなって、サツマイモもそろそろ植えられる時期になった。
展覧会の後、「うちの庭に埋めたい」と言って苗を一つ持って帰ってくれた人がいた。
こうやって、<あの9ヶ月>の後にまたこの物語が続いていく事に対して、答えはまだ見えないし、見なくても別にいいのかもしれない。
けれど、あの9ヶ月は、あの時の情けなかった自分を支えてくれたり話を聞いてくれる人達抜きには成り立たなかったのだ。
そういう事だったんだと今は思う。
2010/05/30 written by 中村絵美
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