熊と





「動物たちが身を捧げてくれたおかげで、人は人になった」ヨーゼフ ・ボイス

ヨーゼフ・ボイスも管啓次郎先生も言っていることですが、

人類の歴史の中で、人間以外の生き物の存在というものは重要で、私たちの意識からぜったいに切り離してはいけないものだとおもう。

彼らのおかげで私たちは私たちのコントロールし得ない「世界」についての理解を深め、長い時間をかけて心を育んできたのだから。

撮影することを含め、野生動物との触れ合いは本来認められないもの、というときの「触れ合い」という言葉に含まれる意味ははあまりに広義で回収しきれないぐらいで、野生動物と私たちをほとんど隔絶しなければそれは実現しないものだとおもいます。

しかし、それが実現したとしても、その結果は、おそらくあまりに狭く貧しい私たちの心と、小さく閉じた蛸壺的人間世界をつくるだけでしょう。人類が自己の営みを抑制するルールを作るための基盤となる世界を見ずして、どうやって世界を維持することができるのか。

現代社会で「野生動物との触れ合い」が認められないし、これからますます隔絶したほうがよいだろうという意見があるのは、既に野生動物と隔絶された人間社会のみに生き、利己的な生活しか営まなかった私たちの中の問題で、野生動物と私たちの問題とはまた違うレイヤーなのではないか。

人間と人間の問題を、人間と動物の問題にすり替えてしまった人がいる気がする。しかも、はっきり言って日本の場合、東京大阪なんかを除いて、自然界と人間がこれほどまでに隔絶されたのは戦後からの話だ。フランス革命ごろから動物園があったパリ市民なんかから見たらどうするんだ。そういう土地と我々の土地とでは、動物と人間の距離感はそもそも伝統的にもえらく違う。

「野生動物の触れ合い」をシャットアウトする言論は非常に危険だし、はっきりいって時代遅れだと思う。すでに実証されつつあるが、貧しく先細りする文明・文化をつくることに加担しているだけなのでは?加速度的にそれを早めるだけではないのか?

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「熊。おれはてまえを憎くて殺したのでねえんだぞ。」宮沢賢治『なめとこ山の熊』

生き物を殺す時に、もっともシンプルで誠意のある償い方は、なんだったのだろう。償いきれない罪を持って生きるのがそもそもの人間のありようだったのではないかと一狩猟経験者として思います。

きちんと弔うこと、食べること、他の生き物にも渡してやるようにすることで、殺してしまった動物がいつかまたこの世界に戻ってきてもらうように道筋を立ててやることが、命の流れを止めないようにと願う人間なりの配慮だった。そういうことが、様々な土地の先住民族の行う狩猟儀礼や儀式や、残された考古遺物などの報告からわかるようになってきた。もちろんアイヌの受け継いできた儀式にもそういうものが沢山ある。

それが出来ない場合には、科学を学んだ人であっても心の清算ができなくなるのかなーとか、いろいろ考えながらこの映像を見ることができました。

目先の現象として、「危害を加えないような熊を殺すな」という言葉は偽善的で意味を成さないが、「人馴れさせないために一切熊に近づくな」という言葉も等しく感情的で意味を成さず、矮小な意見だと思う。

特権的な誰かが決めたルールで世界が作られるのではなく、一人一人の意思と行動が世界の全体をかたち作る。

例えば、ほんとうに自然を守るつもりなら、人の心にいちばん響くことをしなければならない。

そういう意味で、牛来さんは非常に優秀な自然保護活動家だったようですね。

ほとんど絶望的で酷い状況ならなおさら、時間と言葉は大事に使わなければならない。

いろいろと学ぶべきことは多い。

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