引っ越し九日前

ある男は妻を持ち子を持ち家を持った。果たしてその男、私の父になった男の土地はどこになるんだろうか、というのが、自分が子供のころから気にかかることの一つだ。彼はわたしが子供の頃は、一人称に私を使い、親戚の中で唯一標準語を喋る人だった。いわゆるストレンジャーなのだ。ずっと。いまでも?

彼がこの町に入るよりずっと前に、町の近くの山の上に入植した男がいた。そこで、開墾し今も相変わらず山の上でヤギ飼いをしている。今は老父である。彼は、ここは故郷ではないけど、故郷以上に愛している土地である、と自作の開墾記に書いた。ドラえもんが表紙を飾る写真台紙の裏表紙に手書きで。

私もそういうふうに土地を愛したい。それは本当のところは長万部でなくていいのだ。いまは行く当てもないので、結局は故郷を離れられていないのですが。ともかく、そんなこと言えるなんて、山羊飼いのおじいさんは心の中に土地を二つ持っているのだ。故郷と長万部とを。それは素敵なことだと思って、なんとなく羨ましい。

物事を即興的につなぎ合わせて物語を作るということ(私はそれを作品でかたちにしているけれど)は、土着に向かうためのつじつま合わせみたいなことなんだとおもう。
それはある種の征服。だが、自分の内面を整えて、土地を受け入れる行為なのだと今は捉えてみたい。

そうだとすれば、絶えず移動することで、物語はうまれ続けるのだろうか?

それとも、それぞれの人にそれぞれ呼応する土地があり、その土地が物語を生み出させてしまうのか?

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