「連累[implication]」とは以下のような状況をさす。
わたしは直接に土地を収奪しなかったかもしれないが、その盗まれた土地の上に住む。わたしは虐殺を実際に行わなかったかもしれないが、虐殺の記憶を抹殺するプロセスに関与する。わたしは「他者」を具体的に迫害しなかったかもしれないが、正当な対応がなされていない過去の迫害によって受益した社会に生きている。
私たちが今、それを撤去する努力を怠れば、過去の侵略的暴力的行為によって生起した差別と排除(prejudices)は、現世代の心の中に生き続ける。現在生きているわたしたちは、過去の憎悪や暴力を作らなかったかもしれないが、過去の憎悪や暴力は何らかの程度、わたしたちが生きているこの物質世界と思想を作ったのであり、それがもたらしたものを「解体(unmake)」するためにわたしたちが積極的な一歩を踏み出さない限り、過去の憎悪や暴力はなおこの世界を作り続けていくだろう。
すなわち、「責任」はわたしたちが作った。しかし、「連累」は、わたしたちを作った。

テッサ•モーリス=スズキ『批判的想像力のために グローバル化時代の日本』2013平凡社 pp66-67 (原版は2002、平凡社)




過去のある部分は「私たちのもの」であり、ある部分はそうではないという考え方が、私にはもはや自明なものとは思えない。例えば、(イギリスやアイルランドのような)特定の地理的空間で起こった歴史的な出来事は、それが何らかの形で現在の私の形成と関わりがあったがゆえに、「私の過去」の一部となるが、(オーストラリアや日本のような)他の場所で起こった歴史的な出来事もまた、私の人生がそれらの場所の未来と密接な関わりがあるがゆえ、「私の過去」の一部となるはずだ。


同上 p94


換言すると、ここで重要なのは、彼ら彼女らが過去をめぐる二つの対立するナショナリズムの物語(ナラティブ)ばかりでなく、ネーションに関わるより大きな物語(グランド•ストーリー)を断ち切るのに役立つ、ネーションを横断する物語(ナラティブ)や疑問に自らをさらしたという点であった。

同上 p101

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