つれづれ、頭の中

東京出身北海道移住者の方に、沖縄に対しては申し訳ないという気持ちが起こるが、北海道に対してはそう思わない、と言われた。言うだけ誠実ではあるけれど。わたしとその彼は同じ穴のムジナなのに線引きされるのはなぜか。
そもそも引き合いに出した土地、民族、問題に対してイメージしている時制は、等しくなかったと思う。同化政策あるいは開拓期までで時間が止まってる可能性がある。現在米軍基地が現在の問題として捉えられるのは今まさに基地があそこにあるから。北海道でも、おなじ時制を持つ部分があると、(しかしそれを問題として固定化できるかわからないほど体感的に)わたしは思うけど。


現時点の素材では体系だって提示することも把握することも難しいと思う。つまり問題に対してのわかりやすい形態がない。
 M.フリードの彫刻論読みたてなのでその論を適用してみよー。
ただシンボリックな形(ex基地)があったとしても、そこから読み取れる情報は観者には主観性があるものじゃない(客体性)。映画や演劇のように反芻、享受し続けることはできても(演劇性)。


形態には、思考を定着させる力がある。形として定着させることは、まず自覚するためにのみ必要だ、と言い切ってしまっていいものか。
だからといって単純に形態を投げ捨ててしまえば、ヘリウム風船の紐を切ることとおなじではと思う。


(ツイッターでの呟きをまとめたものに加筆した)

コメント