われとなんじ

ブーバーを読みました。

しかし、後編に入れられてる「対話」で二人の男の対話の情景はほとんどファンタジー。

わたしに語るのは。彼ではない、ただ何かが語りかけるのである。(p186)

恋愛感情って相互に、同時に、起こりえる性格の者じゃないということが、ブーバーの「対話」で描かれている対話の性質そのもののようだと思いました。“何か”が語りかけたがゆえに、人は一方的に相手に恋をしてしまうのかも。(相手が語りかけたわけじゃない、ということに自覚的にあるひとは紳士と呼ばれますね。)
面白くもあり悲しくもあるところ。

(制作に関して)わたしが「運命」的なものに惹かれるのは、自分のほとんど視野狭窄な考えを超えたところに手を触れられることのできるという喜びが、さまざまなものを包括しているこの環境に「生かされている」という実感にとても近いところにあるからでしょう。
いつも小舟のように風待ち状態なのはよろしくないのかもとは思うけど…。



関係の目的は、関係すること自体にある、つまり、<なんじ>と交わることにある。なぜならば、さまざまな<なんじ>と交わることによって、<なんじ>のいぶき、永遠の生命のいぶきに触れるからである。(p80)

人間が受け入れるのは、特殊な<内容>ではなく、現存であり、力としての現存である。(p138)

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現存と力の3つの特質(p138-139のまとめ)
  1. <われーなんじ>には真の相互性があるということ(この結合(相互性)は生活を軽くすることはないが、重くする可能性がある。しかし生活に重大な意味を与えるだろう。
  2. 言葉では言い表しがたい意味の実現と言う特質(=もはやなにものも無意味なものはあり得なくなる。=意味の説明の必要もない。)
  3. この世界の生活の意味が確証されることを望んでいるという特質(=現実のわれわれの生活に意味があるということ)
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