プロジェクトダダだ

レジデンス終わりました!!!!

ということで、山陰からの帰り道で一週間ほど関東周辺へ。
ハウスマッカリに泊めてもらったりアーカスにお邪魔したりしてました。
あと、S—AIRの柴田さんに誘われてasahi art festivalの助成団体報告会に参加。


最後の最後にAAFのエラい人、加藤さんが、「コミュニティの衰退の原因をしらなければならない」んじゃないかと発言。
しかしそれを踏まえた上で、アートを使って社会の課題に向かい合うべきなのかどうかは疑問。

アートが地域の問題に立ち向かう必要は無いと私は思う。
アートプロジェクトは、新しく素晴らしい作品を作るという美術史的側面よりも、どのような人達とどのように関わって生きるのか、という社会的な側面が昔より強くなっているんだろうなというのはいろいろな事例を聞いていて思う。
プロジェクトで出来た今までとは違う成り立ちのコミュニティを、今度はプロジェクト以外のところに使ってもらえれば、アートで問題に立ち向かう必要はないのではないかと思う。


とにもかくにも地域アートプロジェクトやそれに関わる人々の魅力はとても理解されてきていて、アーティスト以外の人達もそれをうまく使っているんじゃないかな。アーティストやアートを愛する人達はもう一本そこのうわ手を取って、地域の中でアートに加担する共犯者を増やして行ってしまえばいいんだと思う。
そういうスタンスを大事にすることでアートも地域も喰われずに、お互いがもうすこし地域課題に対して向かいやすくなるのではとふと思った。

しかし、アートプロジェクトに関わることで学んだことを、社会問題に立ち向かう時に忘れてしまい、政治的・権力的になりすぎると、いままで住民をアートに染めてきた意味が一瞬で無くなりそう。



そうそう、地域に潜む問題は国策から生じたもので、そもそもが地域固有の問題として閉じている訳ではないというお話が興味深かった。

最近各地でノマド的に活動しまくっているアーティスト見てると、もはやアートそれ自体に何の意味もなく、ただの人間が行うただの物事に何らかの美しさが付随する(という状況になっている)ことが重要になってきているのではないだろうか。
ダダ的だなーと思う。。

ダダ的なプロジェクト(日本全国で起っている多様で奇異な物事が大衆に受け入れられてきていること)の理由の一つに
資本主義社会の刹那的な構造で、消費され排除されていくことへの不安や反発があるんだろう。


しかしながら、作品の強度という問題になると大変世知辛い状況に少々の怒りすらある。

アート、芸術性が排除される土地、捨ててしまう土地がある。とくに中央部から離れた地方に本当にその波幅は大きく降り掛かっている。しかも地方は地方でも地方都市以外の部分に顕著である。
AAFというメセナの性質は、地方都市に文化として芸術を根付かせる、そのための支援をする、というのがもともとの性格だったのだと思う。それは非常にうまくいっている。そして、うまく行き過ぎて地方都市以外の土地すらもそれを求めだしたというところに現状のこのAAFの多様さが生まれているのだと思った。

それが、今や、芸術(アート?)は公共の福祉に充分に貢献し過ぎて、もはや必要とされなくなっている状況も生まれているというのが興味深かった。

プレゼンだけを聞いた印象として、ひとまずは、「なぜ(わたしは)アートするのか?」「(わたしは)アートでなにをしたいのか?」という主体性が見えてこなかった。もちろんそれぞれの立場を背負った代表であることを踏まえると、それを求めるのは酷な話ではあるけれど。

そもそも「なぜアートなのか?」その理由を「地域課題解決のために」などという公共に結びつけて語らずに、いい大人がもっと根源的な話をしてみればいいと思ったよ。

継続を求めるのはなぜか?生活者としての基盤が彼等にとってはアートなんだから、そこは綺麗な言葉で隠さなくても良いと思う。
でも大人ってほんとにいろいろ大変だから、そんなことは酒の席でしか話せないよね~でもだからって東京に来てまでカラオケ歌ってる場合か?

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