超資本主義と民主主義

ウェブ進化−ほんとうの大進化はここから始まる− 
著: 梅田望夫


読了。


これは、美術学の参考図書というか指定教科書だったもの。レポートを書くために丹念に読んだこともあるし、今度の院試の勉強にも役立つ分野なので興味深く読むことが出来た。





 ここで言われていた「新しい富の分配」メカニズムは「持たざるもの」への直接的な支援に繋がっているメカニズムだそうな。
 このメカニズムは一見素晴らしい平等性を持っているように見えるが、ほんとうにそうだと言えるのだろうか?

 発展途上国の人が知的生産活動を行い生計を立てることが出来ている、というがそれはインターネットが整備され得た状況の発展途上国の限られた地域の人の話である。インターネットを持っていない本当の「持たざるもの」が切り捨てられているのではないか。
このような刹那的な状況の中で、超資本主義的視点で成り立つのが、Googleの提唱する新しい富の分配なのではないだろうか。

で、この前知り合った人が言っていた、けど2chとかニコ動とかで「ネ申www」とか言われているこの状況とか見てると、多数に支持されることを良しとする民主主義的思想ってのがどうもネット社会では尊重されているような気がしています。ツイッターなんかでも、フォローやRTされているのが多いってのがひとつのステータスの基準だったりするし。

 改めて、インターネット上には今「民主主義的価値」と「超資本主義的価値」の2つが横行しているんだなーと思った。

 経済学者のロバート・ライシュによると「資本主義と民主主義の間には本来適正な境界線があり、車の両輪として機能すべきものなのに、昨今は資本主義が力が強くなりすぎて、民主主義の領域を浸食してきており、結果として所得格差や環境破壊のような問題が噴出してきている」という。その強くなり過ぎた資本主義が超資本主義と言われるものだと彼は提唱している。

 であれば、たしかに、インターネット上に2つの価値が共存しているというのも納得である。
超資本主義的価値をインターネット上のWeb2.0企業が採用していくのに対して、ウェブ上の民衆となるブロガーやクリエイター、などWeb2.0のサービス利用者たちは民主主義的価値を強めていくことになるだろう。

 しかし、この民主主義が超民主主義となり、2つの車輪がうまく回るようになることはないのじゃないか、という考えもふと頭をよぎる。

というのも、「総表現社会の中の一人の表現者」であるweb2.0の住人たちの活動範囲というのは常に非常に整えられたWeb2.0サービスの上にしか成り立たないからである。ようするに超資本主義の上に乗せられた民主主義なのだ。

 本当の表現者として、そういったネット世界の民主主義を乗り越えることが求められる時代がくるんじゃないかな。
 そのとき、2つの価値はもちろんのこと、ネット世界と現実世界という2つの世界を横断するコンテンツ表現が、総表現社会の新しい道しるべとして機能するんじゃないだろうか。

ネットとリアルの横断は今のところUSTサービスだけど…
もっと個人的なところから他が共有出来ない圧倒的な独自システムで表現を開始したりしたら激強いんじゃないの?
といって自分がやろうとかそういんことじゃないんだけどね。
可能性の思考ゲームとして。

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