第4回 北島敬三WORKSHOP写真塾公開講座での講演
以下の通り、東京都内でレクチャーと鼎談を行うことになりました。
写真家の大友真志さんの個展「Mourai」に合わせての関連イベントだそうです。
詳細確認、予約はリンク先からお願いします。
第4回 北島敬三WORKSHOP写真塾 公開講座
「長万部交叉——北海道・長万部から写真を見る」
開催日:2019年3月21日(木祝)
会場:photographers’ gallery
講演:中村絵美 16:00〜17:00
鼎談:中村絵美、大友真志、倉石信乃、高橋しげみ(司会) 17:10〜18:30
聴講費:2,000円
定員25名・要予約
https://pg-web.net/documents/lecture/workshop-201903/
こちらのリンクから自分が執筆した内容紹介を転記しておきます。
内容紹介(文責:中村絵美)
〈1〉長万部
(…)語らうか蝦夷のむかし、語らば恨に声も立たぬなるべし、書かうか其の恨、書かば悲しみに筆も凍るべし。いで書き流さん墨の痕、濃かれ薄かれ我筆の凍るまで(…)
評論家・福島辰夫(1928-)が「北海道初期写真群」を語るとき、あるいは北海道101に関わる学生らに向けて文章を書く必要のあるとき、彼が好んで引用したのは幸田露伴の書いた新聞小説『雪粉々』の冒頭文だった。この小説は1669年に起こったシャクシャインの戦い前後の蝦夷地を舞台とした新聞小説である。
この物語の始まりの舞台が、現北海道・長万部町静狩であり、道普請に駆り出されるアイヌ青年の姿が描かれていることは、長万部という土地を語るにも最適の書き出しであろう。明治期から、それ以前から、様々な人や物や文化が行き交う場所が長万部という土地の特性である。折しも2019年は、シャクシャインの戦いから350年が経とうとしている節目の年であることを、長万部がその戦いの激戦地であったことを、私は今まさに混濁した歴史の中から思い出そうとしている。
〈2〉長万部写真道場
写真を前にして行う象徴的な知覚はまなざしの交換から成り、写真が記憶したまなざしをわれわれは追想する。この意味においても、写真は二つのまなざしのあいだのメディアなのである。その際、重要な意味をもつのは、撮影されたまなざしとそれを再認するまなざしのあいだに横たわる時間である。
私が長万部生まれの写真家・澤博(1924-2012)の存在を知ったのは、掛川源一郎(1913-2007)の長万部撮影行についての調査をしようとした時だった。澤の没後、澤の住居には、澤が生涯撮りためていたと思しきプリントやフィルムが数千枚残されていた。
私はそれと知らず、澤のご遺族に頼んで住居兼アトリエを見せてもらう機会を得た。そして、大量の写真の中から「長万部写真道場」と朱書きされた台紙に貼り付けられたプリントの束を発見した。その瞬間、澤の遺した写真全てに強く興味を惹かれ、ご遺族に写真の整理を願い出た。その後約4年間かけて、長万部写真道場の沿革と写真の内容について調査を行った。
澤博そして長万部写真道場のスナップ写真には町中で働く人々や開拓農家、漁師といった、太平洋戦争直後の1950年代から1980年代の街を支える人々の多様な生活の姿が映されていた。また、彼らの写真には、土門拳(1909~1990)が昭和30年代に提唱し全国の写真愛好家に影響を与えた「リアリズム写真」の影響が色濃く伺える。「絶対非演出のスナップ撮影を基本的な方法論」とし、「今日ただ今に生きる人間としての怒りや喜びや悲しみ」を捉えることで、写真は絵画的演出の強いサロン写真や観光写真とは一線を画した、「抵抗の精神」を示す芸術の域に達すると土門は訴えた。
これらの写真には、〈地方〉のアマチュア写真家が映しだそうとした長万部という地域を超え、リアリズム写真運動の趣意をすり抜けてなお、今日の北海道に関わる私たちに、我々の歴史的な道行きはどのようなものだったのかと問いかけてくる力強さを備えている。
本レクチャーでは、先住と移住の人々が寄り集まって生きる文化混淆地・長万部とは何か、戦後長万部を撮るとはどういうことだったか、また、約半世紀経った今、写真が長万部に残されているということに一体どの様な意味が立ち上がってくるのかを論じたい。
〈3〉補記
こころせよ えみしもおなじ 人にして この国民の 数ならぬかは
1869(明治2)年7月、松浦武四郎(1818-1888)は開拓使初代長官鍋島直道から、長官、次官に次ぐ高官職である開拓判官に任命され、北海道という名称の原案名称を提案した。8月15日に蝦夷地は「北海道」と命名される。しかし、鍋島は病弱のため、蝦夷地に赴任することなくひと月程で長官の座を辞し、公家出身の東久世道嬉(ひがしくぜ・みちとみ)がその後を継いだ。翌1870(明治3)年3月、松浦はアイヌ民族に対する搾取を行いつづける開拓使上層部を批判し、わずか7ヶ月で職を辞した。同年8月20日付け、開拓使から御用写真師として田本研造(1832-1912)が札幌とその周辺の撮影を命じられる。その後写真師たちが北海道全域の開拓事業の記録を行い、大量の開拓事業記録写真が形成されていった。この写真群の一部が、蝦夷地が北海道と名付けられた後の100年後、1968年、「写真100年」展の重要なイメージとして内藤正敏ら〈中央〉の写真家によって「発見」されている。
写真家の大友真志さんの個展「Mourai」に合わせての関連イベントだそうです。
詳細確認、予約はリンク先からお願いします。
第4回 北島敬三WORKSHOP写真塾 公開講座
「長万部交叉——北海道・長万部から写真を見る」
開催日:2019年3月21日(木祝)
会場:photographers’ gallery
講演:中村絵美 16:00〜17:00
鼎談:中村絵美、大友真志、倉石信乃、高橋しげみ(司会) 17:10〜18:30
聴講費:2,000円
定員25名・要予約
https://pg-web.net/documents/lecture/workshop-201903/
こちらのリンクから自分が執筆した内容紹介を転記しておきます。
内容紹介(文責:中村絵美)
〈1〉長万部
(…)語らうか蝦夷のむかし、語らば恨に声も立たぬなるべし、書かうか其の恨、書かば悲しみに筆も凍るべし。いで書き流さん墨の痕、濃かれ薄かれ我筆の凍るまで(…)
(幸田露伴『雪粉々』1889年)
評論家・福島辰夫(1928-)が「北海道初期写真群」を語るとき、あるいは北海道101に関わる学生らに向けて文章を書く必要のあるとき、彼が好んで引用したのは幸田露伴の書いた新聞小説『雪粉々』の冒頭文だった。この小説は1669年に起こったシャクシャインの戦い前後の蝦夷地を舞台とした新聞小説である。
この物語の始まりの舞台が、現北海道・長万部町静狩であり、道普請に駆り出されるアイヌ青年の姿が描かれていることは、長万部という土地を語るにも最適の書き出しであろう。明治期から、それ以前から、様々な人や物や文化が行き交う場所が長万部という土地の特性である。折しも2019年は、シャクシャインの戦いから350年が経とうとしている節目の年であることを、長万部がその戦いの激戦地であったことを、私は今まさに混濁した歴史の中から思い出そうとしている。
〈2〉長万部写真道場
写真を前にして行う象徴的な知覚はまなざしの交換から成り、写真が記憶したまなざしをわれわれは追想する。この意味においても、写真は二つのまなざしのあいだのメディアなのである。その際、重要な意味をもつのは、撮影されたまなざしとそれを再認するまなざしのあいだに横たわる時間である。
(ハンス・ベルティング 仲間裕子訳『イメージ人類学』2014年)
私が長万部生まれの写真家・澤博(1924-2012)の存在を知ったのは、掛川源一郎(1913-2007)の長万部撮影行についての調査をしようとした時だった。澤の没後、澤の住居には、澤が生涯撮りためていたと思しきプリントやフィルムが数千枚残されていた。
私はそれと知らず、澤のご遺族に頼んで住居兼アトリエを見せてもらう機会を得た。そして、大量の写真の中から「長万部写真道場」と朱書きされた台紙に貼り付けられたプリントの束を発見した。その瞬間、澤の遺した写真全てに強く興味を惹かれ、ご遺族に写真の整理を願い出た。その後約4年間かけて、長万部写真道場の沿革と写真の内容について調査を行った。
澤博そして長万部写真道場のスナップ写真には町中で働く人々や開拓農家、漁師といった、太平洋戦争直後の1950年代から1980年代の街を支える人々の多様な生活の姿が映されていた。また、彼らの写真には、土門拳(1909~1990)が昭和30年代に提唱し全国の写真愛好家に影響を与えた「リアリズム写真」の影響が色濃く伺える。「絶対非演出のスナップ撮影を基本的な方法論」とし、「今日ただ今に生きる人間としての怒りや喜びや悲しみ」を捉えることで、写真は絵画的演出の強いサロン写真や観光写真とは一線を画した、「抵抗の精神」を示す芸術の域に達すると土門は訴えた。
これらの写真には、〈地方〉のアマチュア写真家が映しだそうとした長万部という地域を超え、リアリズム写真運動の趣意をすり抜けてなお、今日の北海道に関わる私たちに、我々の歴史的な道行きはどのようなものだったのかと問いかけてくる力強さを備えている。
本レクチャーでは、先住と移住の人々が寄り集まって生きる文化混淆地・長万部とは何か、戦後長万部を撮るとはどういうことだったか、また、約半世紀経った今、写真が長万部に残されているということに一体どの様な意味が立ち上がってくるのかを論じたい。
〈3〉補記
こころせよ えみしもおなじ 人にして この国民の 数ならぬかは
(松浦武四郎『西蝦夷日誌 四編』1869年)
1869(明治2)年7月、松浦武四郎(1818-1888)は開拓使初代長官鍋島直道から、長官、次官に次ぐ高官職である開拓判官に任命され、北海道という名称の原案名称を提案した。8月15日に蝦夷地は「北海道」と命名される。しかし、鍋島は病弱のため、蝦夷地に赴任することなくひと月程で長官の座を辞し、公家出身の東久世道嬉(ひがしくぜ・みちとみ)がその後を継いだ。翌1870(明治3)年3月、松浦はアイヌ民族に対する搾取を行いつづける開拓使上層部を批判し、わずか7ヶ月で職を辞した。同年8月20日付け、開拓使から御用写真師として田本研造(1832-1912)が札幌とその周辺の撮影を命じられる。その後写真師たちが北海道全域の開拓事業の記録を行い、大量の開拓事業記録写真が形成されていった。この写真群の一部が、蝦夷地が北海道と名付けられた後の100年後、1968年、「写真100年」展の重要なイメージとして内藤正敏ら〈中央〉の写真家によって「発見」されている。
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