「イメージの前で」一章目
従来の芸術に関する「知」とは・・・
見えるものvisible、見えないものinvisible、読めるものlisible
見えないものinvisible
フラ・アンジェリコの「受胎告知」からは、画面外、描かれていないもの、、、それだけではなく「見えるもの」「読めるもの」に還元できない要素がある。それを解釈から除外しているのではないか?「なにもない」のではなく、そこには視覚的なもの(visuel)と呼ぶことができる白色の面[パン]がある。…という、ディディ=ユベルマンの非常に興味深い洞察。キリスト教の作品の聖なる力の強さを補遺しなおそうとしているという非難もあるようだ。それはそれとして、この可視的 le visibleと視覚的 le visuel という微妙な語彙の使い分けが、ひとまず頭の中の着火剤となって、一気に読む気が起こりました…。
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美術史は〈見えるもの〉の専制に身を委ねている限り、イメージの視覚的効力を理解し損ねるだろう。美術史は歴史であり、過去を理解しようと努めているのだから、次のような長きにわたる逆転をーー少なくともキリスト教芸術に関してはーー考慮しなければならない。つまり、要求以前に欲望が存在し、スクリーン以前に開放が存在し、位置づけ以前にイメージの場が存在したのである。可視的な芸術作品以前に、可視的世界の「開放」に対する要請が存在し、この開放は、形態ばかりでなく、視覚的で、行為化され、書かれ、あるいは歌われた狂乱もまた差し出していたのだ。図像学的な鍵ばかりでなく、神秘の徴候や痕跡もまた示していたのだ。さて、キリスト教芸術が欲望、つまり未来であった時点と、芸術が過去形で語られることを前提とした知の決定的勝利の間で、いったい何が起こったのだろうか
p81
失われた祭儀の、中世のまなざしの、その世界が過ぎ去ってしまった対象の、つまりその世界が崩壊してしまった対象の「同一性」をどのようにして捉えるのか。どんな歴史家にも感情移入の欲望(絶対に正当化される欲望)がある。そしてこの欲望は、ときには強迫観念に、心理的強制に、ときにはボルヘス的な狂気に変貌しうる。このような欲望は、歴史における不可欠なものと思考不可能なものを同時に名指ししている。なぜ不可欠なものかというと、「comprendre(理解する、内包する)」という語の文字通りの意味において過去を理解するには、一種の婚姻に身を委ねる必要があるからである。つまり過去の中へと入り込み、それを深く理解し、要するにそれを完全に捉えるために一体化していると感じなければならず、その代わりにわれわれ自身が、この行為のさなかに過去によって捉えられているのである。
p57
そして次に、時には過去が、歴史的解釈そのものの疎外的要因として強力に現れるからである——これはやっかいな逆説である。実際、過去の現実を過去の範疇だけで解釈する計画を完全に実現するとしたら、そしてそのことに具体的意味があるとしたら、何が得られるのだろうか。おそらく、審問官による論証——「特殊な」論証——だけを備えた異端審問所の解釈が得られるだろう。この解釈が、受刑者による論証(抗弁と叫び)も備えているとしても、いずれにせよそれは悪循環の中で空回りをするだろう。想像力において過去と結ばれることは必要なことだが、それで十分ではない。おそらくそこで人は、ひとつの時代における微細な点にまで到達し、そうしてその時代をそれに固有な了解可能性を通じて理解しようと努める。しかし、了解可能性そのものを理解しようとするなら、婚姻関係を裏切ることもできなければならない。それは遠隔化した眼差しを条件として初めてなされる。つまりこの眼差しは、現在の中をさまよい、現在を知るのであり、そしてこの知は。今度はその眼差しを豊穣なものに変えるのである。
pp59-60
ジョルジュ・ディディ=ユベルマン「イメージの前で」江澤健一郎訳、 法政大学出版局、2012
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バシュラール『ひと精神分析』では物質的想像力を発見し、四元素の中でも「火」を軸にした執拗な分析を行っていたのですが、 こちらの本では、バシ ュラールと同じく、 かつ物質としての絵画作品から得た非常にimaginableな 体験を確信の元にして、 筆を進めていることが伝わります。
「本と本は繋がっている」っていう体験がこんなところで。
見えるものvisible、見えないものinvisible、読めるものlisible
見えないものinvisible
フラ・アンジェリコの「受胎告知」からは、画面外、描かれていないもの、、、それだけではなく「見えるもの」「読めるもの」に還元できない要素がある。それを解釈から除外しているのではないか?「なにもない」のではなく、そこには視覚的なもの(visuel)と呼ぶことができる白色の面[パン]がある。…という、ディディ=ユベルマンの非常に興味深い洞察。キリスト教の作品の聖なる力の強さを補遺しなおそうとしているという非難もあるようだ。それはそれとして、この可視的 le visibleと視覚的 le visuel という微妙な語彙の使い分けが、ひとまず頭の中の着火剤となって、一気に読む気が起こりました…。
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美術史は〈見えるもの〉の専制に身を委ねている限り、イメージの視覚的効力を理解し損ねるだろう。美術史は歴史であり、過去を理解しようと努めているのだから、次のような長きにわたる逆転をーー少なくともキリスト教芸術に関してはーー考慮しなければならない。つまり、要求以前に欲望が存在し、スクリーン以前に開放が存在し、位置づけ以前にイメージの場が存在したのである。可視的な芸術作品以前に、可視的世界の「開放」に対する要請が存在し、この開放は、形態ばかりでなく、視覚的で、行為化され、書かれ、あるいは歌われた狂乱もまた差し出していたのだ。図像学的な鍵ばかりでなく、神秘の徴候や痕跡もまた示していたのだ。さて、キリスト教芸術が欲望、つまり未来であった時点と、芸術が過去形で語られることを前提とした知の決定的勝利の間で、いったい何が起こったのだろうか
p81
失われた祭儀の、中世のまなざしの、その世界が過ぎ去ってしまった対象の、つまりその世界が崩壊してしまった対象の「同一性」をどのようにして捉えるのか。どんな歴史家にも感情移入の欲望(絶対に正当化される欲望)がある。そしてこの欲望は、ときには強迫観念に、心理的強制に、ときにはボルヘス的な狂気に変貌しうる。このような欲望は、歴史における不可欠なものと思考不可能なものを同時に名指ししている。なぜ不可欠なものかというと、「comprendre(理解する、内包する)」という語の文字通りの意味において過去を理解するには、一種の婚姻に身を委ねる必要があるからである。つまり過去の中へと入り込み、それを深く理解し、要するにそれを完全に捉えるために一体化していると感じなければならず、その代わりにわれわれ自身が、この行為のさなかに過去によって捉えられているのである。
p57
そして次に、時には過去が、歴史的解釈そのものの疎外的要因として強力に現れるからである——これはやっかいな逆説である。実際、過去の現実を過去の範疇だけで解釈する計画を完全に実現するとしたら、そしてそのことに具体的意味があるとしたら、何が得られるのだろうか。おそらく、審問官による論証——「特殊な」論証——だけを備えた異端審問所の解釈が得られるだろう。この解釈が、受刑者による論証(抗弁と叫び)も備えているとしても、いずれにせよそれは悪循環の中で空回りをするだろう。想像力において過去と結ばれることは必要なことだが、それで十分ではない。おそらくそこで人は、ひとつの時代における微細な点にまで到達し、そうしてその時代をそれに固有な了解可能性を通じて理解しようと努める。しかし、了解可能性そのものを理解しようとするなら、婚姻関係を裏切ることもできなければならない。それは遠隔化した眼差しを条件として初めてなされる。つまりこの眼差しは、現在の中をさまよい、現在を知るのであり、そしてこの知は。今度はその眼差しを豊穣なものに変えるのである。
pp59-60
ジョルジュ・ディディ=ユベルマン「イメージの前で」江澤健一郎訳、
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バシュラール『ひと精神分析』では物質的想像力を発見し、四元素の中でも「火」を軸にした執拗な分析を行っていたのですが、
「本と本は繋がっている」っていう体験がこんなところで。
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