北海道・写真・記録

1)記録
「北海道」という言葉は、松浦武四郎が樺太・手塩(道北)系アイヌの自称「カイナ」から採った音により名称されたということについて、前回の道北旅で「北海道命名の地」に立ち寄った際に改めて考えさせられた。AIRや展示が続いたが、その間も頭の片隅に置いていて、しばらく考えている。
松浦武四郎は明治2年、開拓使のアイヌ民族搾取是とする政治方針を強く批判し辞職している。
明治3年8月20日付け、開拓使から御用写真師として田本研造が札幌とその周辺の撮影を命じられる。その後写真師たちが北海道全域の開拓事業の記録を行い、「北海道初期写真群」(←福島辰夫が呼称する呼び方)が形成されていく。

2)政局
開拓使長官を明治2年7月13日から元佐賀藩大名の鍋島直正が勤める。鍋島長官は満州開拓、オーストラリアでの鉱山開発などを提言したことでも知られる。
明治2年8月25日〜明治4年10月まで、公卿出身の東久世通禧が勤める。
黒田清隆の次官在職時期は明治3年5月9日〜明治7年8月。東久世長官時代に次官として奉職。そのまま明治7年8月に長官に就任。

3)政治
明治8年に千島・樺太交換条約が結ばれるに至る。江戸末期に制定された「日露間樺太島仮規則」の元、樺太にはロシア、日本からの移民が大量に送り込まれた。国内では、黒田開拓次官の樺太を放棄すべきという意見と外務卿(=当時の外務省長官)の樺太を南北に分けようという考えの対立があった。
松浦武四郎も樺太は北海道とともに日本に組み込まれるべきと考えていたのではないか。松浦はアイヌ語を習得し、南部中部に住む樺太アイヌとの交流を経て、中部以北のニヴフとの住み分けをよく観察・理解していた。また樺太アイヌ語に北海道アイヌ語の祖語を見出そうとしていた。この民俗学的見地と、政府官僚の帝国主義的見地がうまく合わさったことにより、江戸時代から報告されていた南東部の呼称「アイノ」「アイヌ」ではなく、「カイナ」からの音を借用した、「北海道」という名称になったのではないかと思うんだけどどうだろう。

3)「写真100年」展に対する今日的見解
「日本写真の1968」シンポジウムの土屋誠一氏の発言
(ソース、p15から:https://topmuseum.jp/contents/images/info/journal/kiyou_13/03.pdf
・写真100年展というものは戦前戦中写真と戦後写真を「切断するという明らかな意図」があった。
・「このような前提があるとして、一体「写真100年」点においてどのような写真が肯定的に捉えられたのか」
・「その中で肯定されたのは一体何かというと北海道開拓写真と山端庸介の写真です。」「どちらも表現というものがゼロ度の状態であった」「主体が消し飛んでいる表現がゼロ度の写真であり、それが良い写真であると評価された」
・「ただしこの点については今日においては留保が必要です」「「写真100年」展は、写真メディアの特性に従ったフォーマリズムにいかに展開できるのか、そのような事例というものは過去の日本の写真の中にあったのか、という検証だったと思います。その中で発見されたのが田本や山端であり、逆に、それ以外の特に写真会で有名だった写真家たちのほとんどに、否定的な眼差しが向けられる結果に至ったわけです。」

4)シークエンス
「写真の解説によって絵入り新聞の読者は、その受け取り方を一定の方向に規定されてしまうのである。この傾向は、やがてまもなく映画のなかでさらに厳密で強制的なものとなる。映画のばあい、ここの影像のとらえかたは、その影像に先行する一種のシークエンスにとってすでに決定されているように思われる」(ベンヤミン「複製技術時代における芸術作品」)

「写真を前にして行う象徴的な知覚はまなざしの交換から成り、写真が記憶したまなざしをわれわれは追想する。この意味においても、写真は二つのまなざしのあいだのメディアなのである。その際、重要な意味をもつのは、撮影されたまなざしとそれを再認するまなざしのあいだに横たわる時間である。われわれは世界をこの別のまなざしで見、このまなざしはわれわれ自身のものでもありえたと信じて疑わない。同じ世界を別の時間に見るので、異なって見えると考えるのである。創作物とは思えない写真の画像(イメージ)において世界を眺めるとき、われわれはその画像(イメージ)から持続性を与えられたまなざしによって世界を体験しているのだ。」(ハンス・ベルティング『イメージ人類学』p286)

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