三枝 礼三「北海道の文学とキリスト教 : 風土と文学に関する一考察」から

バチラー八重子によるただ1冊の歌集『若きウタリに』は、量においてはドストエフスキーの文学と同質のそれであるといっても過言ではない。八重子の文学も、勝れて実存的であると同時に社会的である。その八重子の文学は、キリスト教を実存の根拠としつつ、滅びゆく民としてのウタリの運命に連帯し、植民地型の社会的風土による侵蝕に抗する戦いの中から生み出された。(中略)実存的であると同時に社会的ですらあろうとするドストエフスキー、八重子の運命「虐げられた人々」の運命の下に視点を据えようとする文学にこそ、独自の可能性が開かれるであろう。
 だが、自身、植民地型社会風土の尖兵として加害者でしかない者が、どうして被害者のウタリの運命に連帯化することができるだろう。虐げる者がどうして「虐げられた人々」の運命に連帯化し得るだろう。そこに北海道文学の深刻な困難があるだろう。
 しかし、ウタリの一員でないわれわれにとっても連帯化し得る「虐げられた人々」はいったいどこにいるのであろうか。もしそれを見いだすことができれば、展望はおのずから開けてくるに違いない。

引用:三枝 礼三「北海道の文学とキリスト教 : 風土と文学に関する一考察」『紀要 21号』、北星学園大学、1981 http://ci.nii.ac.jp/naid/110004466365/




三枝の最後の問いかけは、ようするに原罪を背負った者はいるのかと言っているように聞こえた。
三枝は、和田謹吾の提唱した北海道文学の4つの分類の中で第3分類にあたる「北海道の地理的自然環境に恵まれた作品群」を発展させることで北海道文学に独自の方向性がうまれるのではないかと論じた。北海道の自然、とりわけ冬の厳しさは、「自然自身との同化を人間に対して拒否する」ものであり、人は「自然とは異質な人格として対抗しなおすことを促される」と言う。そして、この否定性に対抗する人格には、「強烈な理念の支えがなければならない」。(p11)
国木田独歩。有島武郎、三浦綾子は、人はどのように孤独を強いられる存在かを、北海道の厳しい自然環境と「原罪」という原理を重ねつつ見いだそうとしたと三枝は指摘する。バチラー八重子は、自身の生の根拠であるアイヌ民族という共同体から、キリスト教に出会うことで個を分離させた。同時にバチラー八重子はキリスト教者になることによって同胞(ウタリ)の運命をウタリ同士が担うこと、社会的に連帯することの必要性を真剣に考え、事実連帯を実践した。
人々を原罪による状況、自然や人間社会から個々の存在が切断されている状態から救い出すために身を投げる。そのようなキリスト教の理念は、バチラー八重子には、アイヌという実存全体を救う術として機能するものだったのだろう。

三枝は、実際に虐げられた人々と加害者でしかないわれわれを安直に括ることは出来ないといみじくも指摘する。

>だが、自身、植民地型社会風土の尖兵として加害者でしかない者が、どうして被害者のウタリの運命に連帯化することができるだろう。虐げる者がどうして「虐げられた人々」の運命に連帯化し得るだろう。そこに北海道文学の深刻な困難があるだろう。

これをふまえて三枝の論文で取り上げられる、三浦綾子の小説『氷点』に出てくる少女の物語は、「加害者」の子孫としての北海道開拓移民にとって赦しを示すような内容ともとれはしないか。
自分の父が人殺しであったことによって知らずに迫害され、また知ることでおのれ自身がその存在にうちふるえて、自殺を図る。しかし、実際には罪人の子ではないのだということがわかり、回復のきざしをみせる中で小説は終わる。三浦の物語を、実際のわれわれに結びつけて考えることははなはだ不適切とは思うが…。
ウタリの一員でないわれわれにとって、連帯化し得る「人々」はいったいどこにいるのか。「虐げられた人々」と「許されざる人々」という存在を同質的に見てしまうことのないように注意しなければならない。

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