熊倉ゼミ出席1




今日熊倉純子さんのゼミに出席。倉石ゼミもあったし、13時から22時までとんど休み無く講義を受けてて、全てが終わるまで昼も夜も食べていなかった。

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ミシェル・ド・セルトー(仏)
[戦略]
・固定の場所を持って権力を行使する。
[戦術]
・固定の場所を持たない。
・ある権力の場に依存しながら存在する。
・またそうした場の隙間にそっと入り込むようにして権力の網の目を崩して行く。

[戦略]が内在する、[地域]に対して[戦術]によってアートが何事かを切り拓く、という事
[地域](=文化の過疎地域)で何が出来るのか?という問いがあること
プロジェクトはマチに馴染む必要があるのでアートとしての先鋭性が失われるということ

・アートで成り立つプロジェクト
・アートによって生成される関係性で成り立つプロジェクト

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ふむふむ。
私が考えていたこととほとんど同じ。じゃあこういう事柄は、もうあるから書かなくていいのかー、と思う。
  • そうなのだけれども、思っていたのとは逆に、アーティスティックなプロジェクトはもういいから、そこから産まれた関係性を見ていきたい、という人が多くてかなり衝撃を受けた。
それなので、意見を出したら、アートとしての作品的強度を問題とするプロジェクトを探求することは、実践としては探求すべきだが、それをアカデミックな場で確定していくことは「芸術学の域を出ない」(つまり、意義や還元性が低いからやんなくてよくね?的なこと)と冷ややかな空気で言われてますますカルチャーショック。では、彼女はどの領域からプロジェクトを研究してるのか、そんな基本的なことすら私は知らないので、この場合優等生的な意見は出せないよね。

  • また、セルトーの「戦術」と「戦略」という用語を引用されていたけれど、誰と戦うのか?日本語でこの単語は闘争性が際立つから、あんまりよくないなあと個人的には思う。もっともフランス語のこの言葉のニュアンスすらも知らない。

戦術について言うならば、「高機動幻想ガンパレード・マーチ」というプレイステーションのゲームのキャラクターが、戦争のため学徒動員され、最初に受ける戦術授業でこのように言われる。「本物のサムライとは、要するに目にうつる全ての物を武器にして戦う者ですよ。」ここからアフォーダンス的な話につなげることも容易いし、それは芸術と戦術ひいては生存術の基本的機能だと思う。
でも、武器の使い方を覚えそれを適切に行使したとして、いったいプロジェクトが、アーティストが、スタッフが、戦術と呼べるほどに何かを殺すぐらいのエネルギーを行使しているのか。倫理に抵触しないような柔らかい一太刀に、戦術という名前は相応しくない気がする。

  • 川俣正はアートツーリズムという形式や1パターン化による、形骸化に警報を鳴らしている、という。
さらに、今回配られた膨大な資料の中で掲載されたインタビューによれば、彼はアートプロジェクトの評価について、「短期的な見方」しか出来ていない、「消費されている」のではないかと懸念している。

去年北教大の特別講義をしてくれた、パリの大学の映像を教える先生で作家のDavid Kidmanに「なぜフランス政府が積極的に資本を芸術に与えるのか?」という単純な質問をだれかがした(私だったかもしれない)。
David Kidmanによれば、端的に言えば、アートは直接的にすぐに社会に働きかけるわけではない。けれど、発言をすることで人々の意識をゆっくりと変えて行く可能性を持っているので、それを積極的に受け入れることが、政府自体が内省しさらなる豊かな社会を形成することができる、という態度を示すのだ、という話をしていた。

だぶんダヴィッドと川俣の行ってることは同じだと思うんだけど。つまり、「アートは直接的にすぐに社会に働きかけるわけではない。けれど、発言をすることで人々の意識をゆっくりと変えて行く可能性を持っている」ということ。
だから、そして、私はパリに居る彼らに賛成だ。もっと長いスパンで物事を考えたい。できれば、300年スパン、3万年スパン、3億年スパンとかで考えたい。

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