沖縄の人たち

2015年7月22日 本部町
沖縄から友人が来て、数時間だけ開拓写真の資料など見てもらっていろいろ喋った。沖縄から出た人のこと。移民。入植者。
長万部に入植した沖縄県出身者の足跡を辿ったことがある。掛川源一郎の写真集『大地に生きる』のルポに書かれている土地を巡ったのだ。彼らは沖縄出身ではあるが戦前から大阪で働いており、緊急開拓事業の招集を新聞広告で見て、空襲の相次ぐ大阪にいるよりはと北海道への移住を決めたのだという。
彼らの出生地である沖縄の本部町には数年前に行った。私にとっては人生二度目の沖縄だったが、北海道との環境の違い一つ一つにびっくりしたのをいまだ覚えている。本部町の博物館の学芸員さんに、本部町出身の方々が私の町に住んでいるので来ましたと携えていた写真集を見せたら、そりゃそうかもしれないけど大変驚かれて、北海道に本部出身者が行っているのは初耳だったと言われた。そして、町には北海道への移民の情報はなかったと思うと言われた。
レジデンス期間の休日に、突然決まった本部行きで、完全に無計画の旅だった。

町史を見てもいいかと聞いたら小部屋に通していただくことができて、ゆっくりと目を通してみることができた。取り急ぎめくってみた戦前期の記述には、そんなような情報は確かにない。でも、北海道ではとても珍しい苗字だが、彼らと同姓の人たちの名前がたくさん記述されていた。併設施設の図書館には掛川の写真集は置いていなかった。北海道に向かう書類にサインしたとき、汽車に乗り込むとき、彼らは大阪府民だったのだろうとそこで思い至る。

それからずいぶん日が経ってしまったが、今年の4月、彼らが戦前住んでいた大阪府に訪れた。大阪という場所のことは、掛川写真関係では重要視していなかったからあまり調べもしなかった。しかし実際は気づくことがいくつかあったので、不勉強を反省した。次回はもう少し調べて行きたいと思う。
大阪で落ち合った知り合いに、大正区というところが沖縄出身の方々が多く住むエリアだということを教えてもらって、そのまま連れて行ってもらった。そしてほんのちょっとだけ歩いた。このときの私は仕事を辞め引っ越したばかりで、大自然に囲まれた知床での生活感覚がまだ残っていた。大阪というのは川でもなんでもコンクリートに囲まれていて、本当に均質で、都市だなあという感想を抱いたな。そのときの自分は、バスに乗るのも久々だった。
大量の沖縄移民を迎え入れた第一次大戦後の大阪は、今ほどすべてが均質化されてはいなかったに違いないけれど、やっぱり「ソテツ地獄」と言われるほどの不況に見舞われた沖縄や、目下政府主導で開拓事業を推し進めている最中の北海道に比べるとほんとうに巨大なマチだったと思う。どんどん巨大化して、均質な都市に変貌していく途上だったのじゃないだろうか。
そのような大阪で、身内に頼らずに、なんとか暮らしを立てていたはずの沖縄出身者個々人の体験は、北海道に向かうことを決断するときに、なにかしら作用しているような気がする。
沖縄体験だけ思い返しても、大阪体験だけ思い返しても、とりとめのない体験だったりするんだけど、長万部、大阪、沖縄という自分の体験を比較すると、なんかそんなような気持ちになったなあ。
このいくつかの小さな気づきは、今日、沖縄の友達に話せたのでようやく書き出せるまで言葉にできた。


2015年7月22日 本部町にて



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