津軽とクマ
津軽半島には現在はクマがいない。同半島で生息していたという最新の情報は中里町の産地で一九二八年(昭和三年)に二頭捕獲されたというものと蓬田村で一九三〇年(昭和五年)に生息を確認したというものであり、それ以後現在まで約六十年間生息情報がない。
なお中里小学校にはツキノワグマの剥製があるが、(中略)今後、生息する可能性が全くないであろう津軽半島のクマの最後を記念する貴重な剥製であると思われる。(平田貞雄『みちのくの人と自然』、津軽書房 1990)
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という状況なのだということを知り、最近出ているヤマケイ新書の鹿や熊の生態学の本で、東北の狩猟圧と林業の施業状況について相当だったのだなと知る。東北では、どこまで山を切って獣をいただいていたのか。近世〜近代にいたり、相当過剰な狩猟圧があったと思う。近代に拓かれてしまった道内も然り。
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山の頂より八方を見るに、大樹茂りし深山通りて、所どころにかの羆にとられし人の追善にて立てし大なる卒塔婆あり。土人菩提車と称す。行来の者念仏を唱え車を回して行くとなり。(中略)世に鬼住国と称せるはかかる地のことなるべし。(古川古松軒『東遊雑記』1788)
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北海道知内町付近の、金堀も通ったであろう山道の情景を指して書かれた、この文章の面白さが引き立つ。この文章、読んでから内容を忘れたことがない。内地と北海道の自然観のへだたりについて考えさせられる一節だとおもって覚えている。入植を試みた最初期の内地人の自然観が、北海道島でまったく通用しないということが、卒塔婆が何本も立ち並んだ道を歩き、死者のために洗礼を受けることで実感させられる。これはけっこう強烈なイメージだとおもう。
もともと自分はヒグマとツキノワグマの生態的違いでこれを解釈していたが、青森のような場所のことを具体的に知ると、当時の内地人の自然観をより想像できるような気がする。
北海道島は、南から見たら本当に別次元の島だったんだと思う。
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