戦後開拓という地層
4月頭、長野の満蒙開拓平和記念館に行ってきました。
Photographers' Gallery メンバーの方々数名と一緒に車で旅して、一人ではいけないようなところに数々行けて、自分にとって、本当に重要な旅路になりました。
このとき、車に同乗していた青森のTさんに、羅臼で知り合った、白崎映美さんのバンド「東北6県ろ〜るショー!!」をご紹介しました。そのものずばり、白崎映美さんについての連載が朝日新聞で始まったようです。震災後に八戸出身小説家木村友祐さんの小説「イサの氾濫」をお読みになって、音楽活動を再開されたという、山形出身の歌い手です。
http://www.asahi.com/articles/DA3S12885047.html
この方、歌もMCも普段の会話も自分のところの方言で堂々とやっていて、そういった存在自体に、自分はすごく惹かれたんです。
DVD発売だけと勘違いしてましたが、CDも出ています。
http://amzn.to/2nZ9k7f
「イサの氾濫」は、おすすめです。
震災後、書店等でも話題になっていましたが、研究者の山内明美さん「こども東北学」も、おすすめです。
木村さんや、白崎さんが、お国言葉を使う姿勢に呼応すると思います。
http://booklog.kinokuniya.co.jp/ohtake/archives/2012/01/post_80.html
山内さんの論文も、おすすめです。ネットでも公開されているものがあります。
http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/handle/10086/16507
(『「辺境」からはじまる 東京/東北論』に収められている、小論も良かったです。赤坂憲雄さんらの小論もまとめて読めるのでありがたかったです。)
山内さんの論を読んでいて、外地=亜寒帯地域(北海道、樺太、千島、満州)の植民地化、農民投入についての国家的な理論基盤は、東北地帯の植民地化の成功からきているということを考えていたのですが、、、。
今回の長野の旅で、このぼんやりと考えていたことと、見聞きした風景や歴史が接続していったような気がします。
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今回の長野の旅のあと、長野で見てきた戦後開拓集落跡の農地風景や、満蒙開拓平和記念館で見た、長野→満州の農家移民の惨状の聞き語り映像、満州開拓史に本当にお詳しく、何を聞いても応えてくださった、素晴らしいスタッフの島崎友美さんに教えていただいたことを、何度も反芻しています。
自分の断片的な知識をつなぎ合わせつつ、ふと農地改革ってなんだったんだろうと気になって調べてみました。「地主制が日本の軍国主義に加担した」という考えがGHQには強くあったようで、農地改革=小作人制度の解体に乗り出したということですが、、、。
軍国主義、植民地主義と、日本農民による農地化が強く結びついていたということでしょうか。今回勉強した、満蒙開拓の政策に対する言葉のような気がします。
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帰り道の車の中で東京まで来て、その風景を見て突然に、千葉出身Kさんに、千葉には湿地があるんですと、ぶつぶつ言っていました。本当にうまいこと、私の頭の中、風景と記憶が混じり合った記憶術に特化しているようで、あのビルの雑居する風景をみるまで忘れていました。この時すでに、頭の中で長野の旅をいろいろな記憶とつなぎ合わせていたのだと思いますが、全然まとまっていなかったので、断片的にだらだら喋っていて申し訳なかったです。
私がこのとき言っていた湿地というのは、習志野市の谷津干潟のことでした。この干潟の風景を見に行ったことがあります。(谷津は、ヤチ坊主のヤチと同じ意味で湿地を意味します。いろいろな地名に残っていますが「津」は、港を意味します。湿原の港というような地名だったのではないかな。)
なぜ千葉の湿地の話出していたのかというと、東北の水田化よりも前の時代に遡ると、徳川家の母体である松平家が高原地帯に住んでいたこともあり、そこで培われた灌漑・治水による水田経営ノウハウを、利根川水系の北関東一円で発揮したこと(利根川東遷事業)が、北海道開拓史以前の歴史として、重要に思えていたからなのでした。
千葉や茨城の湿地帯を水田化に成功させたということは徳川幕府の最たる成果の一つだったようですし、そもそもの明治以降の東北水田化に対する執着は、この徳川幕府の灌漑農業の成功に裏打ちされているのではないか。関東平野=関東ローム層上の利根川水系の水田化が、山内明美さんの論考で言われる<稲作ナショナリズム>の嚆矢であると考えます。
関東・東北の農家、とくに小作農家の貧困については、柳田國男などはじめとする様々な民俗学や文学の示す通りだと思う。
戦後開拓の失策には、当時の科学技術によっては乗り越え難い、気候地質に基づく自然環境の異なりによる開拓困難地での苦悩、関東・東北等の小作農家が晒されてきた問題に、貧困農民たちが再び巻き込まれるしかないという国家の生み出す構造上の苦悩という、移民に対する二重の苦悩があるのではないかと切に思います。
今回見てきた長野の戦後開拓集落のように、温帯地域の高地に現れる、局所的な亜寒帯気候地帯では、周辺の農地化成功地帯との非情ともいえるコントラストを伴って、失敗集落としてそれが現れてしまう。
全地域が近代に拓けた(ということになっている)北海道と違う、既存集落との貧富の差や差別が本当に際立っていたというのは、北海道出身者としては、小さくない驚きがありました。
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道立自然公園の野幌森林公園という場所に、復員軍人や満州・樺太からの引揚者を集めた戦後緊急開拓集落がありました。自然公園内にはそういった解説は全くありません。現在は「野幌原始林」という愛称の場所で親しまれています。
3年前、樺太史を専攻する中山大将さんという若手研究者に頼んで、公園内の集落跡地の痕跡を解説してもらいながら、何人かで現地を歩いたことがあります。
http://eminakamura.blogspot.jp/2014/11/the-walking-tour-in-old-rural-community.html
中山さんも、満蒙開拓平和記念館の島崎さんのように、自分の立つところまで歴史を繋ごうとしている人です。自然公園内のこの野幌集落出身者がご家族にいらっしゃるそうで、離散集落の方の聞き取りなど研究に地道に取り組み、成果としてまとめたということでした。
ここの離散の決め手は、北海道開道100年記念事業の自然公園化のための立ち退き要請だったということです。代替え農地などの補償はありましたが、開道記念という祝祭事業と表裏一体になった形での、集落離散には違いありません。
十数年後の知床の開拓地でも、道立公園化と集落離散が同時に起こっています(岩尾別開拓)。知床はその後世界自然遺産となり、かつての開拓集落の歴史は、「手付かずの原野」「原始林」で売り出した知床にはふさわしくないという、観光ブーム時代の感覚が未だ続いています。
戦後開拓の失敗に対する最終的な帰着の方法の一つを、「公園化」(と青森Tさんが言ってくれた)に見いだせるのではないか、と思います。環境保護という美名の下に行われることもあるし、場所によっては、ゴミ処理場、原子力発電所などの設置でもある。公有地、準公有地としての利用ということか。
俵浩三『北海道・緑の環境史』に詳しいですが、大正期、日本では北海道の急速な開拓・開発によって、自然保護の意識が高まり、アメリカのナショナル・パーク制度の導入についての議論が活発に起こります。景勝地保護としての「国立公園化」は、天皇制とも深く結びついた国家表象のための空間・景観論に基づいていたらしく、北海道の自然林保護より先駆けて、静岡県の富士山地域の国立公園化が国会で提唱されたということ。
現在の公園制度は、こういった理論が基礎となっていますが、ここでも、GHQの戦後改革の一環である林政統合の影響で、この理論はかき消えているみたいです(が、形骸化しつつもまだその表象性が生き延びていると私は思います)。
ちなみに北海道国有林も、この戦後改革で様々に所轄等が変わり、管理や経営方針がいろいろと見えづらくなっております。どこが未開拓地であるか、原始林であるか、見分け出すことは十分な知識と訓練がなければ困難な状態。
300年以上続いた内地の水田地化、外地農地開拓の問題が、いま「公園化」問題に帰着し、環境保護の風潮の元に漂白化されていく、そういう新しい時期に突入していると私は考えています。
北海道では「アイヌ民族はもういない」といった札幌市議、国会議員の発言も数年前ありましたが(そして彼らは未だネット上でヘイトスピーチを繰り返す)、「原始林」「原野」などという言葉をあてがって自然景観を観光地として売り込むこともそう、政治、歴史に対しての無理解を公然とさらけだすような態度をけっこう見かけるものです。作家・学芸員でも、こういう忘却の罠に嵌ってしまう人がいるので、注意しないといけないと思います。
歴史認識もそうですが、自然環境=土地に対する不理解が、まさに開拓失敗の悲劇のもと、棄民の産みだされる原因の一つなんではないかと思います。
単純に、我々の無知は、そういう態度の繰り返しに通じもするわけで、文化表象の担い手としては貧弱体です。個人的にはそうあってはならぬと思うので、人よりも足取りが遅くなったとしても、抗いたいと思います。頭でっかちになりたいわけではないですが。
「外からの視点」が新しい風を吹かすと言われることがあります。その通りの部分もあります。しかし、漁師町でよく言うように「いい風」「悪い風」もあります。凪るか時化るか、順風か逆風で、舟の進む速度、運べる荷の数も変わります。郷土に生きる者としては、土地に学び、人に学び、歴史や自然に学ぶ、実直な態度を忘れてはいけない、背負える分は少しでも継いでいかなければならないと思います。歴史は容易く寸断されるし、都合よく忘れ去られていくものだから。
各場所にそうした内側の人間の基盤があってこそ、外の視点と内の視点との交わり合いの意味も高まるのではないか。外の視線がもたらす普遍化、地域の歴史や伝統が規定する個別化のパラレルプロセスが重要だと思う。そこには新しい文化を創り得る可能性があるのではないかと考えている。そこは楽観的。そこぐらいは楽観し、楽しんでやりたいものです。
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