わたしたちの土地(物語はだれのものか)
サンゴソウ(アッケシソウ)を見に行ったついでに、網走市周辺のオホーツク人の営みに興味があって、能取岬の上までドライブをしてきた。
オホーツク人は、稚内市礼文島、北見市常呂、網走市モヨロ、羅臼、根室市弁天島に集落が発見されている。
常呂、モヨロは現在内陸に接しているが、標高と地勢をみると、海、湿原、断崖に囲われ、当時かなり島的状況であったのではないかと思われる。川や湖を挟み対岸になるような本島側の場所には、必ず大きな擦文集落やアイヌチャシがある。
オホーツク・擦文が出会うのは8〜9Cで、オホーツク文化が途絶えるのは13Cとのこと。二つの文化が習合されていく、オホーツク文化終末時代には、知床周辺に「トビニタイ」と名付けられた、擦文文化とオホーツク文化の折衷の生活様式が現れる。しかしこれはすぐにアイヌ文化の様式へと変化する。この時代(アイヌ・和人以前)からすでに、島と島をめぐる政治や人の動き、ある種の緊張状態があったことに気づき、心動かされた。
網走行きの翌週に、斜里町ウトロ地区のチャシコツ岬上遺跡発掘現場の見学会に行ったというTさんの話を聞いた。それによると、チャシコツ岬上にはオホーツク文化期の遺跡があり、貨幣のようなものが発見されたという話である。
Tさんは去年知り合った、近所に住むライターさんである。といってもここから車で一時間半はかかる隣町なのだが、貴重な茶飲み友達となってくれている。彼女からパズルのピースになりそうな面白い情報をたくさんもらっていて、最近何度か外に出ていくきっかけになった。
チャシコツ岬は標高50m程度の海に突き出た絶壁で、Tさんたちのところに遊びに向かう道沿いにある。
能取岬の美岬にあるオホーツク文化遺跡は標高40mほどの同じような崖の上にある。近隣では、海際の標高5m程度の段丘に分布しているオホーツク人住居跡が多数あり、それに比べると特異なのだが、海獣類の狩猟に特化した集落だったのではないかと分析されているようだ(『北方民族博物館調査報告2 能取岬周辺の遺跡:美岬4遺跡・能取岬西岸遺跡・美岬5遺跡』)。
このにわか知識を思い出し、チャシコツ岬上の人々も、海獣類の狩猟のためにその見張らしを利用していたハンティング・グループだったのではないだろうかと思う。チャシコツ岬上にはオホーツク文化人の住居跡や墓などが埋まっていたそうだ。この場所からは、時代が下ると、トビニタイ式土器も出てきている。
チャシコツとは、アイヌ語で「チャシの跡」を意味する。この場所のチャシは、北側に位置するオロンコ岩のオロンコ人に対抗するためにこの地のアイヌによって作られたのだという話がユカラ(アイヌの方々の伝承)として残っている。
オロンコ岩はウトロの観光名所になっていて、チャシ跡がある頂上まで階段で登ることができる。ここには住居の跡はないが、岩の下にはウトロ遺跡と呼ばれる場所があり、縄文から続縄文、オホーツク、トビニタイ、擦文、アイヌとそれぞれの文化期の生活が折り重なっている。ここはいまも、ウトロ地区の観光の中心地に含まれる。
アイヌユカラは、ヤウンクル(陸の人)とレプンクル(沖の人)の対立を謳ったものと言われていて(知里真志保説)、いまでは、レプンクルは海洋狩猟民であるオホーツク文化人という見方がひとつの定説になりつつある。チャシコツ岬とオロンコ岩は、ほぼ同じ標高で、たしかに 対に見立てて申し分ないところに隣合って御座しておられる。
ウトロで語り継がれた「オロンコ岩のオロンコ人」というのは、いまでいうオホーツク人だったのではないかと思う。それも、チャシコツ岬に居た人々のことだったのではないだろうか。
トビニタイ時期を挟んで、融合していく二つの文化はどういう様子だったのだろう。とにかく、ここに残ったアイヌ人が、オホーツク人の残した生活の痕跡を「チャシコツ」と名付け、この場所を自分たちの系譜に組み込んだその瞬間、時代が、文化が、語りそのものが、大きく転換していったことと思う。
チャシコツの近くには、マクオイ<mak oo i>[奥・深い・所/義経公合戦の場]、オペケプ<o pe ke p>[そこで・水・かき出した・所/義経公(サマイクル)の船が難破したところ]、チプシケ<chip sike>[船・荷物/サマイクルの船が難破し荷物を引き上げたところ]など、サマイクル=義経伝説が由来の地名も多い。
北海道の他の土地でも、義経が活躍する伝説が多く残っている。西の大きなアイヌ集落がある平取町市外には義経神社というものも建てられている。
そもそも江戸末期まで日本史的由来のなかった北海道に義経伝説がなぜ出てくるかをご存じない方もいると思うので、念のため書いておく。和人(内地入植者)の約150年間に及ぶ徹底的な同化圧力によって、アイヌの文化英雄オキクルミ、サマイクルが登場するユカラが、日本伝統の英雄、義経、弁慶へ名前を替えられ伝承されてきた結果なのだ。
そのため、義経伝説が由来になっている知床の数々の地名も、アイヌに対しての和人の侵略の結果、改変されてきた地名と考えていいと思う。今まで私は、そこに描かれる登場人物や戦いの様子は和人とアイヌのを描いたものと単純に連想していた。
しかし、この地の、つまりこの東沿岸部の、和人に歪められたアイヌ地名の多くは、もともとはレプンクルの誰かたちとの物語の断片を示すものだったのではないだろうかと、いま思う。
昨日は、Tさんを誘って野付半島の「オンニクルの森を歩く」というイベントに参加してきた。片道一時間程度の短いトレッキングだったが、野付半島を西から東へ横切るコースだった。この半島がいかに細長いのかも、塩性湿原からミズナラの森への植生の変化もよくわかる、素晴らしいコースだった。
私の目的はオンニクル遺跡。擦文文化期の竪穴式住居の集落跡(野付1, 2遺跡)。オンニクルは「古い(大きな)森」という意味で、観光地のナラワラより東側の、砂州の内側の丘に出来たミズナラ林を指す地名だそうだ。オンニクル遺跡に行く途中に、イドチ岬という場所で大きなチャシ跡も歩くことができた。
最近はずっと冷たい風が強く吹き荒れる日が多かったので、用心して着込んで出て行ったのだけど、秋晴れに恵まれて汗ばむくらいの暑さだった。
この場所について書くだけの心の整理はまだできていない。貿易港の役割を持たせられたらしい場所だったように思えるし、根室の春国岱のアカエゾマツ林とは対になる場所だと思った。この場所は遠く離れたあらゆる場所へ接続していくような、物語のPortのようだった。歩けば歩くだけ、網細工のように、あらゆる物事がネットワークされて世界=語りがなりたつ。
昔「ストーリー・ソード」という作品を作ったが、いま思えば、あの時のあれは中身のないイミテーションだった(そうであっても/そうであるからこそ、いまでもわたしにとっては重要だが)。いまなら本当の意味で使えるのかもしれない。
オホーツク人は、稚内市礼文島、北見市常呂、網走市モヨロ、羅臼、根室市弁天島に集落が発見されている。
常呂、モヨロは現在内陸に接しているが、標高と地勢をみると、海、湿原、断崖に囲われ、当時かなり島的状況であったのではないかと思われる。川や湖を挟み対岸になるような本島側の場所には、必ず大きな擦文集落やアイヌチャシがある。
オホーツク・擦文が出会うのは8〜9Cで、オホーツク文化が途絶えるのは13Cとのこと。二つの文化が習合されていく、オホーツク文化終末時代には、知床周辺に「トビニタイ」と名付けられた、擦文文化とオホーツク文化の折衷の生活様式が現れる。しかしこれはすぐにアイヌ文化の様式へと変化する。この時代(アイヌ・和人以前)からすでに、島と島をめぐる政治や人の動き、ある種の緊張状態があったことに気づき、心動かされた。
網走行きの翌週に、斜里町ウトロ地区のチャシコツ岬上遺跡発掘現場の見学会に行ったというTさんの話を聞いた。それによると、チャシコツ岬上にはオホーツク文化期の遺跡があり、貨幣のようなものが発見されたという話である。
Tさんは去年知り合った、近所に住むライターさんである。といってもここから車で一時間半はかかる隣町なのだが、貴重な茶飲み友達となってくれている。彼女からパズルのピースになりそうな面白い情報をたくさんもらっていて、最近何度か外に出ていくきっかけになった。
チャシコツ岬は標高50m程度の海に突き出た絶壁で、Tさんたちのところに遊びに向かう道沿いにある。
能取岬の美岬にあるオホーツク文化遺跡は標高40mほどの同じような崖の上にある。近隣では、海際の標高5m程度の段丘に分布しているオホーツク人住居跡が多数あり、それに比べると特異なのだが、海獣類の狩猟に特化した集落だったのではないかと分析されているようだ(『北方民族博物館調査報告2 能取岬周辺の遺跡:美岬4遺跡・能取岬西岸遺跡・美岬5遺跡』)。
このにわか知識を思い出し、チャシコツ岬上の人々も、海獣類の狩猟のためにその見張らしを利用していたハンティング・グループだったのではないだろうかと思う。チャシコツ岬上にはオホーツク文化人の住居跡や墓などが埋まっていたそうだ。この場所からは、時代が下ると、トビニタイ式土器も出てきている。
チャシコツとは、アイヌ語で「チャシの跡」を意味する。この場所のチャシは、北側に位置するオロンコ岩のオロンコ人に対抗するためにこの地のアイヌによって作られたのだという話がユカラ(アイヌの方々の伝承)として残っている。
オロンコ岩はウトロの観光名所になっていて、チャシ跡がある頂上まで階段で登ることができる。ここには住居の跡はないが、岩の下にはウトロ遺跡と呼ばれる場所があり、縄文から続縄文、オホーツク、トビニタイ、擦文、アイヌとそれぞれの文化期の生活が折り重なっている。ここはいまも、ウトロ地区の観光の中心地に含まれる。
アイヌユカラは、ヤウンクル(陸の人)とレプンクル(沖の人)の対立を謳ったものと言われていて(知里真志保説)、いまでは、レプンクルは海洋狩猟民であるオホーツク文化人という見方がひとつの定説になりつつある。チャシコツ岬とオロンコ岩は、ほぼ同じ標高で、たしかに 対に見立てて申し分ないところに隣合って御座しておられる。
ウトロで語り継がれた「オロンコ岩のオロンコ人」というのは、いまでいうオホーツク人だったのではないかと思う。それも、チャシコツ岬に居た人々のことだったのではないだろうか。
トビニタイ時期を挟んで、融合していく二つの文化はどういう様子だったのだろう。とにかく、ここに残ったアイヌ人が、オホーツク人の残した生活の痕跡を「チャシコツ」と名付け、この場所を自分たちの系譜に組み込んだその瞬間、時代が、文化が、語りそのものが、大きく転換していったことと思う。
チャシコツの近くには、マクオイ<mak oo i>[奥・深い・所/義経公合戦の場]、オペケプ<o pe ke p>[そこで・水・かき出した・所/義経公(サマイクル)の船が難破したところ]、チプシケ<chip sike>[船・荷物/サマイクルの船が難破し荷物を引き上げたところ]など、サマイクル=義経伝説が由来の地名も多い。
北海道の他の土地でも、義経が活躍する伝説が多く残っている。西の大きなアイヌ集落がある平取町市外には義経神社というものも建てられている。
そもそも江戸末期まで日本史的由来のなかった北海道に義経伝説がなぜ出てくるかをご存じない方もいると思うので、念のため書いておく。和人(内地入植者)の約150年間に及ぶ徹底的な同化圧力によって、アイヌの文化英雄オキクルミ、サマイクルが登場するユカラが、日本伝統の英雄、義経、弁慶へ名前を替えられ伝承されてきた結果なのだ。
そのため、義経伝説が由来になっている知床の数々の地名も、アイヌに対しての和人の侵略の結果、改変されてきた地名と考えていいと思う。今まで私は、そこに描かれる登場人物や戦いの様子は和人とアイヌのを描いたものと単純に連想していた。
しかし、この地の、つまりこの東沿岸部の、和人に歪められたアイヌ地名の多くは、もともとはレプンクルの誰かたちとの物語の断片を示すものだったのではないだろうかと、いま思う。
昨日は、Tさんを誘って野付半島の「オンニクルの森を歩く」というイベントに参加してきた。片道一時間程度の短いトレッキングだったが、野付半島を西から東へ横切るコースだった。この半島がいかに細長いのかも、塩性湿原からミズナラの森への植生の変化もよくわかる、素晴らしいコースだった。
私の目的はオンニクル遺跡。擦文文化期の竪穴式住居の集落跡(野付1, 2遺跡)。オンニクルは「古い(大きな)森」という意味で、観光地のナラワラより東側の、砂州の内側の丘に出来たミズナラ林を指す地名だそうだ。オンニクル遺跡に行く途中に、イドチ岬という場所で大きなチャシ跡も歩くことができた。
最近はずっと冷たい風が強く吹き荒れる日が多かったので、用心して着込んで出て行ったのだけど、秋晴れに恵まれて汗ばむくらいの暑さだった。
この場所について書くだけの心の整理はまだできていない。貿易港の役割を持たせられたらしい場所だったように思えるし、根室の春国岱のアカエゾマツ林とは対になる場所だと思った。この場所は遠く離れたあらゆる場所へ接続していくような、物語のPortのようだった。歩けば歩くだけ、網細工のように、あらゆる物事がネットワークされて世界=語りがなりたつ。
昔「ストーリー・ソード」という作品を作ったが、いま思えば、あの時のあれは中身のないイミテーションだった(そうであっても/そうであるからこそ、いまでもわたしにとっては重要だが)。いまなら本当の意味で使えるのかもしれない。
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